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見ているだけなのに、イライラ……
他人にイライラしてしまうことはありませんか?
「怒りっぽい人だ」と周囲に認定されていれば、怒りをあらわにして、スッキリできるのでしょうが、「優しい人」と周りから思われている場合、自分の中で抑えるしかなく、余計に苦しいという方もあるでしょう。
考えてみるとルールを守っていない人、店員さんに偉そうにしている人などは、見ているとイライラすると感じる人も多いかもしれません。
たしかに、職場や家庭で「どうしてあんなことをするんだろう?」と他人の言動を見てイライラすることがあります。
別に、私が被害を受けたわけではないのに
「どうしてルールを守らないのだろう?」
「周りの人に迷惑かけていることが、なぜ分からないんだろう?」
と許せなくなるんですね。
他人にイライラする理由
実はイライラしているときというのは「自分は正しい、相手は間違い」と思っています。
たしかに私が正しければ、正しくない相手を注意することができます。
では、正しいの基準は何でしょうか?
「正も邪も勝手に決めるわが都合」という言葉があります。
他人を評価するとき、どれだけたくさんの人からいい人だと言われている人でも、私にだけ意地悪をしてくる人をいい人だとは思えません。
逆に、みんなから悪い人だと言われている人であっても、私にだけは優しい場合、「みんな、あの人のことを分かっていないな」と弁護したくなります。
いい人とは実は私にとって“都合のいい人”であり、その人がいるとどうも都合が悪い。そんな人は悪い人になります。
ところが、この「都合」というのが、とても変わりやすいのです。
昨日までは嫌っていた人でも、私の知らないところですごく褒めてくれていると分かると、「なんだ、いいところもあるじゃない」と評価が良くなります。逆もそうです。
「怒ってはいけない」が憲法に!?
聖徳太子といえば有名です。
日本で、最初に憲法を作った人です。全部で17条あります。
その中で、「怒ってはいけない」というのがあります。くれぐれも憲法ですから、怒ったら憲法違反なんですね。
憲法で決めないといけないくらいに、当時の人たちはイライラしていたのかもしれません。
ただ怒ってはいけない、とだけ言われているのではなく、続けてこのように言われています。
「我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚かにあらず。共に是れ凡夫(ぼんぶ)のみ」
私が必ず正しいのではない、相手は必ず愚かで、間違っているのではないということです。
政治の世界で、争いの絶えない時代を生きていた聖徳太子は、自分の正義を振りかざして、ぶつかり合っている人たちに、こう言われたのでしょう。
「私はいつでも正しいのではない。相手はいつも間違っているのではない。共に凡夫(ぼんぶ)のみである」と。
「凡夫」とは仏教で人間のことを言います。
聖徳太子は仏教にも精通していましたので、聖徳太子の人間観は仏教の人間観と通じます。
すべての人間を表す「煩悩具足の凡夫」
仏教では、私たち人間のことを「煩悩具足の凡夫」と教えます。
これは時代が変わっても、国が変わっても、いつでもどこでも変わらない、すべての人の共通する姿です。
煩悩とは、私たちをわずらわせ悩ませるものであり、代表的なものは「欲の心」、「怒りの心」です。
具足とは「それでできている」という意味ですから、すべての人は欲の心でできているということです。
驚くべきなのは、「人間はみんな同じだ」と見ているところです。
才能、性格、仕事、家族構成、健康状態、収入、どれ1つ取ってみても私と同じ人はありません。どこかしら違うものです。
人間なんの違いもない
1万年堂出版の『光に向かって123のこころのタネ』に、このような話があります。
どんな立場にいても、すべての人は煩悩具足であるということで共通しています。
どこまでも欲しがる欲望と、欲望が妨げられると出てくる怒りの心。それら煩悩のない人はありません。
仏教書『歎異抄』の人間観
さらに、有名な『歎異抄』という仏教書にはこのような人間観が説かれています。
「さるべき業縁の催せば如何なる振舞もすべし」
「業縁」とは縁とも言われ、環境とかきっかけという言葉に置き換えることができます。
信じられないようなことを言ったり、やったりしている人を見ると、「よくあんなことできるな」と軽蔑の心すら起きることがありますが、これは、「自分は絶対あんなことはしない」と思っているからです。
しかし、それはたまたま、私にそんなことをするきっかけがなかっただけで、全く同じ状況に置かれていたらどうでしょうか?
同じことをしないとは絶対に言い切れません。
いや、もっと恐ろしいことをするかもしれない自分だ、という告白です。
これもすべての人に共通する姿です。
今日のブッダの処方箋
お釈迦さまは仏教を鏡のようなものだと言われました。本当の自分を映す鏡ということです。
仏教を聞いていく、ということは、ちょうど鏡に近づいていくようなものです。
鏡から離れていると、そこに映る自分の姿もはっきりしませんが、近づいていくほど見えてきます。
間違いを犯すことのない私が、間違ったあなたを相手にしている限り、「許せない」の心は続きます。
「共に間違いだらけの人間」というところに立つことができると、私だけが我慢しているのではない。私も周りに相当、我慢してもらっているのだ、と分かってきます。
そこから、お互いを尊重する優しさが生まれますし、そのような心で、「ここは直してもらいたい」と相手にお願いすれば、売り言葉に買い言葉のような展開にはならず、お互いに過ごしやすくなってきます。
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