ブッダの処方箋 #2

  1. 人生

すぐイライラしてしまう人に知ってほしい、腹が立つ仕組み

👇動画版はこちらから

見ているだけなのに、イライラ……

他人にイライラしてしまうことはありませんか?

「怒りっぽい人だ」と周囲に認定されていれば、怒りをあらわにして、スッキリできるのでしょうが、「優しい人」と周りから思われている場合、自分の中で抑えるしかなく、余計に苦しいという方もあるでしょう。

考えてみるとルールを守っていない人、店員さんに偉そうにしている人などは、見ているとイライラすると感じる人も多いかもしれません。

たしかに、職場や家庭で「どうしてあんなことをするんだろう?」と他人の言動を見てイライラすることがあります。

別に、私が被害を受けたわけではないのに
「どうしてルールを守らないのだろう?」
「周りの人に迷惑かけていることが、なぜ分からないんだろう?」

と許せなくなるんですね。

他人にイライラする理由

実はイライラしているときというのは「自分は正しい、相手は間違い」と思っています。

たしかに私が正しければ、正しくない相手を注意することができます。

では、正しいの基準は何でしょうか?

「正も邪も勝手に決めるわが都合」という言葉があります。

他人を評価するとき、どれだけたくさんの人からいい人だと言われている人でも、私にだけ意地悪をしてくる人をいい人だとは思えません。

逆に、みんなから悪い人だと言われている人であっても、私にだけは優しい場合、「みんな、あの人のことを分かっていないな」と弁護したくなります。

いい人とは実は私にとって“都合のいい人”であり、その人がいるとどうも都合が悪い。そんな人は悪い人になります。

ところが、この「都合」というのが、とても変わりやすいのです。

昨日までは嫌っていた人でも、私の知らないところですごく褒めてくれていると分かると、「なんだ、いいところもあるじゃない」と評価が良くなります。逆もそうです。

「怒ってはいけない」が憲法に!?

聖徳太子といえば有名です。

日本で、最初に憲法を作った人です。全部で17条あります。

その中で、「怒ってはいけない」というのがあります。くれぐれも憲法ですから、怒ったら憲法違反なんですね。

憲法で決めないといけないくらいに、当時の人たちはイライラしていたのかもしれません。

ただ怒ってはいけない、とだけ言われているのではなく、続けてこのように言われています。

「我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚かにあらず。共に是れ凡夫(ぼんぶ)のみ」

私が必ず正しいのではない、相手は必ず愚かで、間違っているのではないということです。

政治の世界で、争いの絶えない時代を生きていた聖徳太子は、自分の正義を振りかざして、ぶつかり合っている人たちに、こう言われたのでしょう。

「私はいつでも正しいのではない。相手はいつも間違っているのではない。共に凡夫(ぼんぶ)のみである」と。

「凡夫」とは仏教で人間のことを言います。

聖徳太子は仏教にも精通していましたので、聖徳太子の人間観は仏教の人間観と通じます。

すべての人間を表す「煩悩具足の凡夫」

仏教では、私たち人間のことを「煩悩具足の凡夫」と教えます。

これは時代が変わっても、国が変わっても、いつでもどこでも変わらない、すべての人の共通する姿です。

煩悩とは、私たちをわずらわせ悩ませるものであり、代表的なものは「欲の心」、「怒りの心」です。

具足とは「それでできている」という意味ですから、すべての人は欲の心でできているということです。

驚くべきなのは、「人間はみんな同じだ」と見ているところです。

才能、性格、仕事、家族構成、健康状態、収入、どれ1つ取ってみても私と同じ人はありません。どこかしら違うものです。

人間なんの違いもない

1万年堂出版の『光に向かって123のこころのタネ』に、このような話があります。

世の中、なんと不平等なことか しかし、それぞれの役を演じて舞台裏に戻れば、人間なんの違いもない
それにしても世の中なんと不平等なことか。
豪邸の家に生まれる人、貧家に生を受ける人、頭の良い人、そうでない人、才能のある人、少ない人など千差万別だ。
高位高官となっていばっている者、出世街道を突っ走っている人、儲かった儲かったとせっせと銀行へ運んでいる者、貧乏や障害で苦しんでいる人、色欲の奴隷となって道を誤る者、権勢を誇っていたが、全身不随でじゃまもの扱いにされている人、結婚に失敗して泣いている人、焼け出され丸裸になって途方に暮れている人。
人生いろいろである。
盛装した美人がトイレに行ったり、スーツを着たビジネスマンが、外で用を足していたりする姿を見ると、ちょっと変な気がする。
だがトイレに行く者が盛装し、外で用を足す者がスーツを着ているだけではないかと知ると、変に思うのが変なのだと気がつく。
すべては人生劇場の舞台に上がって、それぞれの役を演じているにすぎないのだ。
役を済ませて舞台裏に戻れば、人間なんの違いもないのである。

どんな立場にいても、すべての人は煩悩具足であるということで共通しています。

どこまでも欲しがる欲望と、欲望が妨げられると出てくる怒りの心。それら煩悩のない人はありません。

仏教書『歎異抄』の人間観

さらに、有名な『歎異抄』という仏教書にはこのような人間観が説かれています。

「さるべき業縁の催せば如何なる振舞もすべし」

「業縁」とは縁とも言われ、環境とかきっかけという言葉に置き換えることができます。

信じられないようなことを言ったり、やったりしている人を見ると、「よくあんなことできるな」と軽蔑の心すら起きることがありますが、これは、「自分は絶対あんなことはしない」と思っているからです。

しかし、それはたまたま、私にそんなことをするきっかけがなかっただけで、全く同じ状況に置かれていたらどうでしょうか?

同じことをしないとは絶対に言い切れません。

いや、もっと恐ろしいことをするかもしれない自分だ、という告白です。

これもすべての人に共通する姿です。

今日のブッダの処方箋

お釈迦さまは仏教を鏡のようなものだと言われました。本当の自分を映す鏡ということです。

仏教を聞いていく、ということは、ちょうど鏡に近づいていくようなものです。

鏡から離れていると、そこに映る自分の姿もはっきりしませんが、近づいていくほど見えてきます。

間違いを犯すことのない私が、間違ったあなたを相手にしている限り、「許せない」の心は続きます。

「共に間違いだらけの人間」というところに立つことができると、私だけが我慢しているのではない。私も周りに相当、我慢してもらっているのだ、と分かってきます。

そこから、お互いを尊重する優しさが生まれますし、そのような心で、「ここは直してもらいたい」と相手にお願いすれば、売り言葉に買い言葉のような展開にはならず、お互いに過ごしやすくなってきます。


👆動画版はこちらから