大正時代の大ベストセラー『出家とその弟子』は、倉田百三が『歎異抄』から受けた深い感動をもとに描いた作品だった。その翻訳を読んだフランスの文豪ロマン・ロランは、感激のあまり、倉田に直接手紙を送り、絶賛したといわれるほどである。
『歎異抄』に魅了された倉田は、こう書き残している。
「『歎異抄』は、ものやわらかな調子ではあるが、恐ろしい、大胆な、真剣な思想が盛ってある。見方では毒薬とも阿片とも、利刃ともとれる。そしてどこまでも敬虔な、謙虚な、しかし真理のためには何ものをも恐れない態度で書かれているのである。文章も日本文として実に名文だ。国宝と言っていい」
「『歎異抄』は、私の知っているかぎり、世界のあらゆる文書の中で、いちばん内面的な、そして本質的なものである。コーランや、聖書もこれに比べれば外面的である。日蓮や、道元の文章も、この『歎異抄』の文章に比べれば、なお外面世界の、騒がしい響きがするのである」
万のこと皆もって
そらごと・たわごと・真実あることなし。(歎異抄)
(この世のことすべては、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない)
こんな言葉を聞くと、思わず、「そんなバカな 」と言いたくなる。
ところが、簡単に否定できないのは、親鸞聖人の言葉だからだ。
認めるのは恐ろしい。もしそうなら、自分が今、生きている意味がなくなってしまうではないか。
しかし、冷静に見つめてみると、病気や事故、肉親との死別、リストラ……、確かに明日、何が起きるか分からないのが現実だ。町のスーパーで気軽に買っている食品の安全さえ信じられない世の中、まさに「そらごと、たわごと」。親鸞聖人の言葉が、胸に迫ってくる。
では、そんな儚い世のどこに、変わらない幸せがあるのか。なぜ苦しくとも生きねばならないのか。その、誰もが知りたい「人生の目的」一つを明らかにされたのが親鸞聖人であった。
だからこそ『歎異抄』の一言、一言には、計り知れない深さと、魂を揺さぶるばかりの魅力があるのだ。
日本を代表する哲学者たちが、次のように絶賛するのも、うなずける。
「一切の書物を焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる」(西田幾多郎)
「万巻の書の中から、たった一冊を選ぶとしたら、『歎異抄』をとる」(三木清)
小説家・司馬遼太郎は、学生時代に、『歎異抄』に出会っている。
太平洋戦争の最中、急に兵隊に行くことが決まり、大きなショックを受ける。
「死んだら、どうなるか」
人に聞いても分からない。
書店を訪ね歩き、書物の中から、その根源的な悩みの解決を見出そうとしていた。そんな彼の目をひいたのが『歎異抄』だった。
死亡率が高いといわれた戦車部隊に配属された司馬遼太郎は、戦争中、『歎異抄』を肌身離さず持ち歩き、暇さえあれば読み返していたという。
その心境を、後に、講演で次のように語っている。
「非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがするのですね」
「理屈も何もありませんが、どうも奥に真実があるようでした。ここは親鸞聖人にだまされてもいいやという気になって、これでいこうと思ったのです」
(『司馬遼太郎全講演』第1巻より)
司馬遼太郎が、『歎異抄』を、どう理解したのかは分からない。少なくとも、死と直面する戦場において、精神的に大きな力を与えたことは確かなようだ。