魂を揺さぶる、常識破りの発言の数々!

- ◆親鸞は、何が善やら悪やら、二つとも分からない。(『歎異抄』後序)
- 耳を疑うような発言だ。
だが、よく考えると、私たちのわきまえる「善悪」は、
本当に不変妥当のものなのだろうか。
- ◆親鸞には、弟子など一人もいない。(『歎異抄』第六章)
- 私たちは、みな兄弟であり、上下などはまったくない。
"良き友よ、同胞(はらから)よ、共に無上道を進もうではないか"と全人類に呼びかける、燃える同朋愛の発露である。
- ◆親鸞は亡き父母を喜ばせるために、
念仏を称えたり
読経や法要、その他一切の仏事をしたことは、
一度とてない。(『歎異抄』第五章)
- 葬式や年忌法要などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、世の常識になっている。しかし、読経で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかったのである。
- ◆この世のことすべては、そらごとであり、
たわごとであり、まことは一つもない。(『歎異抄』後序)
- 己の信ずるものは永遠だと、幻想する人たちへの、親鸞聖人の直言だ。
地震、台風、落雷、火災、殺人、傷害、窃盗、病気や事故、肉親との死別、事業の失敗、リストラなど……。いつ何が起きるか分からない泡沫の世。そらごと、たわごとに例外はない。
- ◆"すべての衆生を救う"不思議な阿弥陀如来の誓願の力に
よって救われ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、
念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って
捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。(『歎異抄』第一章)
- 「仏教」と聞くと、地獄や極楽など死後物語ばかりとされている。「弥陀の誓願」といっても、"死後の極楽参り"か、ぐらいに考えている人がほとんどだ。
万人のその誤解を正し、弥陀の救いは"今"であり、その救済は如何なるものかを明示し、人間の真の生きる道をひらかれたのが親鸞聖人である。
- ◆親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」
と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、
何もないのだ。(『歎異抄』第二章)
- 「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」と理解して、「聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」と思っている人が非常に多い。一知半解の誤りである。
- ◆善人でさえ浄土へ生まれることができる、
ましてや悪人は、なおさらだ。(『歎異抄』第三章)
- 「悪をするほど浄土へ往けるのか」と、誰でも思うだろう。
かかる誤解を正すには、親鸞聖人の「善人」「悪人」の認識を、徹底して明らかにするしか道はない。
聖人の「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではない。極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させる。
……詳しい解説は、この本の第二部に掲載してあります。