1. 人生

歎異抄の旅③[京都編]『歎異抄』ゆかりの地を歩む~平家の武将・重衡にみる「後悔しない生き方」

古典の名著を旧跡でたどる旅

『歎異抄(たんにしょう)』とは、唯円(ゆいえん)が、かつて親鸞聖人(しんらんしょうにん)からお聞きしたことを書き記した古典文学です。
『歎異抄』の序文には、次のように書かれています。

(意訳)
かつて聖人の仰せになった、耳の底に残る忘れ得ぬお言葉を、わずかながらも記しておきたい。

(原文)
よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。

親鸞聖人とは、どんな方だったのか? 各地の旧跡をめぐる連載です。
京都の日野の里へ足を進めていると、『平家物語』に登場する平重衡(たいらのしげひら・清盛の五男)の墓を発見!
そういえば、親鸞聖人がお生まれになった頃は、清盛が太政大臣になった平家の全盛期。古典の名著はつながっているようです。

(前回までの記事はこちら)

(古典 編集チーム)


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「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します
(「月刊なぜ生きる」2月号に掲載した内容です)

平清盛の五男・重衡の栄光と没落

小野小町の旧跡・随心院(ずいしんいん)から、旧奈良街道をさらに南へ歩きます。

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間もなく、とても大きな寺が見えてきました。世界文化遺産の醍醐寺(だいごじ)です。

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ちょうど、紅葉の美しい季節でした。道路沿いの白壁を越えて、赤や黄色に色づいた木々の葉が、日光を受けて輝いていました。
やがて道は、住宅街を抜けます。
市営住宅と民家の間に小さな公園があり、その中央に石碑が建っていました。

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平重衡の墓、と刻まれています。重衡は平清盛の五男です。なぜ、こんなところに墓があるのでしょうか。

親鸞聖人がお生まれになった頃は、清盛が太政大臣になり、平家が全盛を極めていました。
重衡も、高い身分に就き、朝廷や院で重きをなした人物です。軍略の才もあり、大将軍として連戦連勝の成果を上げていました。
ところが、一谷(いちのたに)の合戦で源氏に敗れ、捕虜になってしまいます

一生を振り返ると……

重衡には、自分が間もなく処刑されることがハッキリ分かっていました。いざ死を覚悟した時に見えてきたのが、
「死んだら、どこへ行くのか」
という真っ暗な心だったのです。

重衡は、法然上人(ほうねんしょうにん)から仏教を聞いていた武将でした。
「処刑される前に、もう一度だけ、法然上人に会わせていただきたい」
と懇願し、許されます。

法然上人は、あまりにも変わり果てた重衡の姿を見て涙を流されました。
重衡は、法然上人に次のように語ったと、『平家物語』に記されています。

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「私が合戦で死なず、捕虜になったのは、再び、法然上人にお会いするためだったとしか思えません。
お尋ねしたいのは、重衡の後生(ごしょう)です。死んだら、どこへ行くのでしょうか。どうすれば救われるでしょうか。
私は、都で暮らしていた時は、仕事に追われ、忙しい毎日でした。地位や名誉を追い求め、おごり高ぶる心ばかりが出てきて、自分が死んだらどうなるのか、少しも気になりませんでした。これまで、自分の問題として、真剣に仏教を聞いていなかったことが悔やまれます。
気がつくと私は、間もなく処刑される立場になっていました。
死は、今日か、明日か、必ず近いうちに訪れます。
よくよく私の一生を振り返りますと、犯した罪業は須弥山(しゅみせん・世界一高い山)よりも高く、善根は小さな塵ほども積んでおりません。
このまま命が終われば、私は、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちて、苦しみを受けることは間違いありません。
どうか上人さま、お慈悲をもって、このような悪人が助かる方法を、お示しください」

(原文)
きょう明日ともしらぬ身のゆくえにて候えば、いかなる行を修して、一業たすかるべしとも覚えぬこそ口おしゅう候え。倩一生の化行を思うに、罪業は須弥よりも高く、善根は微塵ばかりも蓄えなし。かくてむなしく命おわりなば、火血刀の苦果あえて疑なし。願くは上人慈悲をおこしあわれみをたれて、かかる悪人のたすかりぬべき方法候わばしめし給え。(巻第十 戒文)

同じ悔いを残してはならない

元気な時、平和な時には、
「明日、自分が死ぬかもしれない」
とは、なかなか思えません。
「来月も、来年も生きている」
と信じているからこそ、将来の予定を立てるのです。
ところが、死が眼前に迫ってくると、初めて、巨大な壁に激突したかのような衝撃を覚え、うろたえるのです。
ここで、思い出されるのが、親鸞聖人が青蓮院(しょうれんいん)で詠まれた歌です。

「明日ありと
思う心のあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは」

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仏教を聞いていた重衡でさえ、
「明日、自分が死ぬかもしれない」
とは、少しも思えなかったのです。

親鸞聖人は、重衡と同じような悔いを残してはならないと、わずか九歳で生死(しょうじ)の一大事に気づき、出家得度を決意されたことがうかがえます。

捕虜になった平重衡の身柄は、源氏から奈良の僧侶へ引き渡されました。
かつて平家の軍勢を率いて東大寺、興福寺を焼き討ちした責任を問われ、奈良で処刑されたのです。享年二十九の若さでした。
重衡の妻は、平家が敗れたあと、日野に隠れ住んでいました。夫の悲報を聞き、法界寺(ほうかいじ)の僧に頼んで遺体を引き取り、この地に埋葬したと伝えられています。

親鸞聖人御生家・法界寺

平重衡の墓から、南へ10分ほど歩くと、
「親鸞聖人御生家」
「日野家菩提寺」
と掲げる法界寺に着きました(京都市伏見区日野)。

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山門から入ると正面に、国宝に指定されている阿弥陀堂があります。
平安時代に、日本の政界の中心として栄えた藤原氏には、多くの支流がありました。その中で、この日野を拠点として、法界寺を建立した藤原氏は、「日野」を姓として名乗ることがありました。寺の看板に「日野家菩提寺」とあるのは、そのためです。
「親鸞聖人御生家」
と書かれていますが、やはり真言宗の寺院なので、親鸞聖人の教えは説かれていません。
この静かな寺の境内で、「松若丸」と呼ばれていた頃の親鸞聖人が、遊んでおられたこともあったでしょう。

旅立つ先は?

しかし、それは平和な日々ではありませんでした。
松若丸四歳の時に、父君が亡くなられたといいます。
続いて八歳の時に、母君・吉光御前(きっこうごぜん)が亡くなられました。

相次ぐ父母の死に接し、松若丸は、
「次に死ぬのは自分の番だ」
と驚きが立ったのです。

人は死ねばどうなるのか。
この世が終わったら、どこへ旅立つのか。
後世(ごせ・後生)は、あるのか、ないのか、さっぱり分からない。

次から次へと疑問がわいてきて、未来が真っ暗になります。
この「死んだらどうなるか分からない心」を、仏教では「後生暗い心」といいます。
「後生暗い心」を解決し、この世から永遠の幸福になることこそ、釈迦が説かれた仏教の目的なのです。

松若丸、9歳の決意

松若丸は、9歳の春に、叔父・藤原範綱(ふじわらののりつな)に付き添われて、青蓮院の慈鎮(じちん・慈円)を訪ね、
「次は、自分が死んでいかなければならないと思うと不安なのです。何としても、ここ一つ、明らかになりたいのです」
と、出家得度を願い出ました。

慈円(じえん)は、天台宗比叡山(ひえいざん)の座主(ざす・最高位)を四度も務める高僧です。

「わずか9歳で、出家を志すとは尊いことだ」
と驚きながらも、
「今日は忙しいので、明日、得度の式を挙げよう」
と言います。

慈円が、
「では……」
と立とうとする時、松若丸が筆を持って紙に書いたのが、この歌でした。

「明日ありと
思う心のあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは」

歌を受け取った慈円は、
「おお……」
と、心を打たれたのです。

松若丸は、慈円に懇願します。

「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。人の命は桜の花よりも、はかなきものと聞いております。明日と言わず、今日、得度していただけないでしょうか」

「そこまで、そなたは無常を感じておられるのか……。分かった。早速、準備しよう」

求道の原点を確認するような、切迫した会話がなされたあと、ただちに得度の式が行われたのです。
松若丸の髪は、きれいにそり落とされました。それは同時に、天台宗比叡山での、厳しい修行の始まりでもありました。

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(イラスト 黒澤葵)


 

次回は、いよいよ比叡山へ。お楽しみに。(古典 編集チーム)


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