古典の名著『歎異抄』ゆかりの地を旅する

年末年始は贈り物のシーズンで、何かとお金が入り用になるこの頃……。
突然ですが、クイズです。
日本のお札に最も多く登場した人物は誰でしょう?
正解は、戦前2回、戦後5回登場の「聖徳太子」でした。
子供の頃、お年玉に聖徳太子のお札が入っていると、うれしくて心が弾みましたね。
今回の『歎異抄』ゆかりの地を旅する連載では、聖徳太子の御廟(ごびょう)へ向かいます。
あれ? 聖徳太子と親鸞聖人(しんらんしょうにん)とは、活躍された時代が違うように思いますが……。
木村さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)

(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅⑫[大阪・滋賀編] 聖徳太子の御廟への画像1

「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します

(「月刊なぜ生きる」9月号に掲載した内容です)

親鸞聖人と聖徳太子

比叡山(ひえいざん)から大阪へ。
19歳の親鸞聖人は、深い悩みを抱え、聖徳太子の御廟(墓)へ向かわれました。現在の叡福寺です(大阪府南河内郡太子町)。
私たちは、抱えきれない悩みがあると、信頼できる人に相談したい、と思います。
親鸞聖人は、聖徳太子を尊敬しておられました。聖人よりも約600年も前の方ですから、直接、話をすることはできません。せめて墓に詣でたいと、切実に思われたのでした。
親鸞聖人の悩みとは、何だったのでしょうか。
私たちも、聖徳太子の御廟へ向かい、親鸞聖人の足跡を訪ねてみましょう。

太子町のマンホールに、意外な仕掛け

JR大阪駅から大阪環状線に乗り、天王寺駅で下車。目の前に「あべのハルカス」がそびえています。日本で最も高いビルです。
「あべのハルカス」に直結する近鉄・大阪阿部野橋(おおさかあべのばし)駅から、30分ほど電車に揺られると喜志(きし)駅に着きます。

歎異抄の旅⑫[大阪・滋賀編] 聖徳太子の御廟への画像2

駅の東口には「聖徳太子御廟」と刻まれた石碑がありました。目的地が近いことを表しています。

歎異抄の旅⑫[大阪・滋賀編] 聖徳太子の御廟への画像3

ここから、さらに10分ほどバスに乗って、「太子前(たいしまえ)」で降ります。

歎異抄の旅⑫[大阪・滋賀編] 聖徳太子の御廟への画像4

バス停の名前が示すとおり、聖徳太子の御廟・叡福寺の目の前でした。

歎異抄の旅⑫[大阪・滋賀編] 聖徳太子の御廟への画像5

発車するバスを見送って、足元に目をやると……。
なんと、道路のマンホールの蓋に、

「和を以って貴しと為す」
(わをもってとうとしとなす)

と書かれているではありませんか。

歎異抄の旅⑫[大阪・滋賀編] 聖徳太子の御廟への画像6

仲良くすることが、最も大切な心得

これは、聖徳太子のお言葉です。
聖徳太子は20歳で、推古天皇の摂政(せっしょう)となり、政治に力を発揮されました。その業績として、高く評価されているのが十七条憲法の制定です。

この「和を以って貴しと為す」は、憲法の第一条に記されている言葉なのです。
「仲良くすること、和する努力をすることが、最も大切な心得である。争ってはいけない」
と戒められています。

これは政治においてだけではなく、職場でも、家庭でも大切なことです。だから太子町では、
「聖徳太子のお言葉を、足で踏む可能性もあるけれども、人々が幸せに暮らすために大切な心構えだ」
と考え、思い切って、汚水マンホールの蓋にまで記したのではないでしょうか。それほど、人間関係は難しいからだと思います。

憲法に記された大切な宝物とは

聖徳太子から、後世の私たちへのプレゼントがあります。とても大きな宝物です。しかも、確実に届くことを願って、明記されているのです。

十七条憲法の第二条は、
「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏法僧(ぶっぽうそう)なり」
で始まります。

「ここに、三つの宝がある。心から敬いなさい。三つの宝とは、仏・法・僧である」
と宣言されているのです。

宝の内容は、次のとおりです。
「仏」……最高の覚りを開いた方
「法」……仏の説かれた教え
「僧」……教えのとおり実行し伝える人

なぜ、聖徳太子は「仏法僧」が宝だと言われたのでしょうか。
十七条憲法の第二条には、続けて、
「則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざる」
「それ三宝に帰せずしては何をもってかまがれるを直らせん」
と書かれています。
「仏教は、すべての人が最後に心のよりどころとする教えであり、世界でただ一つの真実の宗教である。いつの時代の人であっても、どこの国の人であっても、仏教を信じなければ、本当の幸せになることはできない」
と、聖徳太子は教えられたのです。

聖徳太子の墓は、なぜ、トンネルの奥なのか?

叡福寺の山門をくぐると、真っ正面の、こんもり盛り上がった山へ向かって参道が続いています。

歎異抄の旅⑫[大阪・滋賀編] 聖徳太子の御廟への画像7

実は、この山全体が、聖徳太子の墓なのです。
つまり古墳です。
直径約54メートルの円墳です。
内部は横穴式石室になっています。山から突き出ている部分が、古墳の入り口です。
親鸞聖人は、建久2年(1191)9月13日から3日間、聖徳太子の御廟へ参籠されました。
比叡山へ登られて、10年が過ぎていました。しかし、今、死んだらどうなるのかと考えると、真っ暗な心しか出てきません。親鸞聖人は、どうすれば「生死(しょうじ)の一大事(いちだいじ)」を解決できるのか、聖徳太子にお尋ねしたいと思われたのでした。

歎異抄の旅⑫[大阪・滋賀編] 聖徳太子の御廟への画像8

現在、古墳の前にはトンネルの入り口のような建物があるだけで、礼拝するための御堂はありません。親鸞聖人は、どこに籠もられたのでしょうか。
寺の関係者に尋ねてみました。
「親鸞聖人が参籠された建物は、どこにありますか」
「今はもうありません。織田信長による焼き討ちで全焼してから、再建されていないのです」
なんと! 信長の仏教弾圧は、比叡山だけではなかったのです。
「焼かれる前は、どんな建物があったのですか」
「室町時代の古絵図を見ると、御廟(古墳)の入り口に礼堂があります。古来、多くの僧侶が、聖徳太子のお導きを受けようと、この礼堂に籠もったといわれています」

歎異抄の旅⑫[大阪・滋賀編] 聖徳太子の御廟への画像9

夢の中で、余命宣告を受けた衝撃

残念ながら、当時の建物は残っていませんでした。
親鸞聖人は、この地で、
「聖徳太子さま。煩悩に汚れ、悪に染まった親鸞、救われる道がありましょうか。どうか、お教えください」
と、祈願を続けられたのです。
そして、第二夜の深夜のこと。
親鸞聖人は、夢を見られました。聖徳太子が現れ、次のように告げられたと、書き残しておられます。

我(わ)が三尊(さんぞん)は、塵沙(じんじゃ)の界を化(け)す。
日域(じちいき)は大乗相応の地なり。
諦(あきらか)に聴け諦に聴け、我が教令を。
汝(なんじ)が命根(みょうこん)は応(まさ)に十余歳なるべし。
命終りて速やかに清浄土(しょうじょうど)に入らん。
善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩(ぼさつ)を。

このお言葉は、当時の地名をとって「磯長(しなが)の夢告」といわれています。
意訳してみましょう。

阿弥陀仏(あみだぶつ)は、すべての者を救わんと、力、尽くされている。
日本は、真実の仏法が花開く、ふさわしい所である。
よく聴きなさい、よく聴きなさい、私の言うことを。
そなたの命は、あと、十年なるぞ。
命終わると同時に、清らかな世界に入るであろう。
よく信じなさい、深く信じなさい、真の菩薩を。

夢だとしても、
「そなたの命は、あと、十年なるぞ」
の余命宣告は、親鸞聖人にとって、大きな衝撃でした。

「私の命は、あと十年……」
19歳の親鸞聖人は、迫り来る「死」を前にして、再び比叡山へ戻り、厳しい修行に身を投じられるのです。


あと十年の命、とは衝撃です。聖徳太子と親鸞聖人とは、深いご関係があったのですね。次回もお楽しみに。(古典 編集チーム)

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