古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ

今回の古典の名著『歎異抄(たんにしょう)』の理解を深める旅は、「信長、秀吉と『歎異抄』」です。
いざ、大阪城へ!
木村耕一さん、よろしくお願いします。

(古典 編集チーム)

(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅㉔[近畿編]信長、秀吉と『歎異抄』の画像1

「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします

(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)

織田信長は、『歎異抄』に敗れた!

「織田信長は、『歎異抄』に敗れた!」と言っても、いいのではないか──。
石山合戦(いしやまかっせん)の舞台となった大阪城跡を取材して、そう確信しました。

──それは、どうしてでしょうか?

なぜなら、天下統一を急ぐ信長の進撃に、大きなブレーキをかけたのが、『歎異抄』の教えを守る本願寺(ほんがんじ)の門徒たちだったからです。
もし本願寺門徒が、11年にもわたって徹底抗戦しなかったら、信長は、明智光秀に殺される前に天下を取っていたかもしれません。

──あの信長に、11 年も徹底抗戦したのですか。驚きました。

では、大阪城へ向かいましょう。

信長と本願寺が戦った石山合戦の跡地へ

東京から新幹線で、新大阪へ向かいます。新大阪駅から地下鉄を乗り継いで、谷町四丁目駅で降りました。地下道からエスカレーターで地上へ出ると、大阪歴史博物館、NHK大阪放送局の辺りでした。
遠くからでも大阪城の天守閣が見えてきます。

歎異抄の旅㉔[近畿編]信長、秀吉と『歎異抄』の画像2

城に近づくと、まず、南外堀(みなみそとぼり)の広大さに圧倒されます。石垣の総延長は約2キロメートルもあり、堀の最大幅は約75メートルあるそうです。

堀をのぞき込むと、水面まで、かなり距離があります。水に浮かんでいる鳥たちが小さく見えました。

──水面に石垣が映えて、きれいですね。

平和な現代の私たちならば、「美しいなあ」と見とれてしまいますが、本来は、敵の侵入を防ぐために造った堀です。

──そういう目的があったのですね。

大軍が押し寄せても、簡単に突破できないようにするには、堀は深くて、広いほど効果があったのです。

──そうですか。大阪城は、簡単に突破できない城だったのですね。

信長と戦った時の本願寺の跡地は、この堀の内側、大阪城二の丸にあります。
大手門から中に入ることにしました。

歎異抄の旅㉔[近畿編]信長、秀吉と『歎異抄』の画像3

修学旅行でしょうか、学生の団体が多く、にぎやかです。人の背丈の何倍もある巨大な石垣の前で記念撮影しています。

──わあ、いいですね。私も修学旅行で大阪城に行ったのを思い出しました。

重々しい構えの門が現れました。その上にあるのは重要文化財に指定されている多聞櫓(たもんやぐら)です。ただの門だと思ってはいけません。ここを通る敵の頭上へ、槍(やり)を落とす仕掛けがしてあったのです。

歎異抄の旅㉔[近畿編]信長、秀吉と『歎異抄』の画像4

多聞櫓を無事に通過して、100メートルほど進むと、ここにも門があったことを示す石垣がありました。厳重な警戒態勢がしかれていたことが分かります。

この南仕切門跡(みなみしきりもんあと)を過ぎると、ほぼ正面に「石山本願寺推定地」と刻まれた石碑が建っていました。

歎異抄の旅㉔[近畿編]信長、秀吉と『歎異抄』の画像5

信長の時代の本願寺は「石山本願寺」または「大坂御坊(おおさかごぼう)」と呼ばれていたのです。

さらに300メートルほど進んだ内堀の近くに、史跡「蓮如上人(れんにょしょうにん)袈裟(けさ)がけの松」があります。

歎異抄の旅㉔[近畿編]信長、秀吉と『歎異抄』の画像6

解説板には、次のように書かれていました。

豊臣秀吉が大坂城を築く以前の戦国時代、浄土真宗の本願寺第八世蓮如上人は、現在の大阪城の地に坊舎をつくり(大坂御坊)、今は切り株だけになっているここの松に袈裟をかけ……

歎異抄の旅㉔[近畿編]信長、秀吉と『歎異抄』の画像7

大坂に本願寺を建立されたのは、蓮如上人でした。

──そうだったのですか。

蓮如上人は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えを、全国へ伝えるために生涯をかけられた方です。京都の山科(やましな)に広大な本願寺を建立されたのは69歳の時でした。
その後も、少しも休まれず、82歳の時に、新たな拠点として大坂の地を開発されたのです。

──今から約500年も前のこととは思えないです。

内堀に面した通路に、「石山本願寺と大阪(大坂)」と題する解説がありました。

歎異抄の旅㉔[近畿編]信長、秀吉と『歎異抄』の画像8

大阪市教育委員会が作製したものです。蓮如上人から江戸時代までの流れが、コンパクトにまとめてあります。

明応5年(1496)、本願寺第8代宗主蓮如は摂津国(せっつのくに)東成郡(ひがしなりのごおり)生玉庄内(いくたまのしょうない)の大坂に坊舎を築いた。「大坂」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1498)11月21日付の蓮如の『御文(おふみ・御文章)』とされている。

大坂は、当時の大都市、京都と堺(さかい)との間に位置していました。
河川を利用した水上交通の要衝であっただけでなく、現在の大阪湾には海外の商船も入港していました。
大坂は、将来、大きく発展する土地であることに、いち早く注目されたのが蓮如上人だったのです。

蓮如上人は、
「仏法は、聴聞(ちょうもん)に極まる」
と教えられました。

門徒として、最も大切なことは、親鸞聖人の教えを聞くことです。
そのために広い本堂が必要になります。
説法を聴聞したい人たちが、大坂へ集まってきます。
遠くから通うことができない人たちは、石山本願寺の近くに家を建てて暮らすようになりました。
このようにして、石山本願寺の周りには二千軒もの家が建ち並んだのです。

──仏法を聞くための一大都市だったのですね。

人が多く住めば、生活するために必要なものを作る職人や、販売する商人も集まってきます。
時は、戦国乱世です。いつ、大名たちの争いに巻き込まれたり、攻撃を受けたりするか分かりません。

石山本願寺は、門徒を守るために、本堂を中心とした町の周囲に土塁や石垣を積み上げ、堀を巡らせて防衛したのでした。
ここには、仏教を中心とした、豊かな都市が建設されていたのです。

やがて本願寺は織田信長と対立し、元亀元年(1570)から11年間に及ぶいわゆる石山合戦の後、大坂を退去し、鷺森(さぎのもり)、貝塚(かいづか)、天満(てんま)を経て、天正19年(1591)に京都へ移転した。

織田信長は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)へ兵を送り、わずか1日で、すべての寺を焼き尽くし、僧侶を虐殺しました。同じように、豊臣秀吉明智光秀などの武将に命じて石山本願寺を攻撃します。しかし、浄土真宗の門徒は強かったのです。
11年間に及ぶ戦いの後に、和議が結ばれ、本願寺は大坂を明け渡して、紀伊(きい・現在の和歌山県)の鷺森へ移ります。

一方、秀吉は大坂(石山)本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設した。この大坂城は大坂夏の陣で炎上したが、江戸幕府によって再建される。
大坂(石山)本願寺の遺構はいまだ確認されていない。しかし、この大阪城公園の辺りがその遺跡と推定され、現在の商業都市大阪の礎となったといわれている。 大阪市教育委員会

信長が本能寺で明智光秀に殺されたあと、秀吉が天下統一を果たします。その権力の象徴として、石山本願寺の跡地に建設したのが大坂城だったのです。

秀吉の大坂城は、大坂夏の陣で徳川家康によって堀を埋められ、破壊されてしまいますが、後に再建されました。
蓮如上人によって開発された大坂は、信長、秀吉、家康が、天下を争う場にもなったのです。

──大坂城を舞台としたドラマで、日本の歴史が変わっていくのですね。しかし、11年間も、信長との戦いに負けなかった真宗門徒のこの強さは、どこから出てくるのでしょうか。

そのヒントは、『歎異抄』にあります。

(原文)
念仏者(ねんぶつしゃ)は無碍(むげ)の一道(いちどう)なり。そのいわれ如何(いかん)とならば、信心(しんじん)の行者(ぎょうじゃ)には、天神(てんじん)・地祇(ちぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界(まかい)・外道(げどう)も障碍(しょうげ)することなし。
(『歎異抄』第七章)

(意訳)
弥陀(みだ)に救われ念仏する者は、一切が障(さわ)りにならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。
(意訳は 高森顕徹著『歎異抄をひらく』より)

自分の子供や孫、また未来の人たちに、正しい親鸞聖人の教えを伝えたいという真宗門徒の熱意によって、信長の弾圧にも屈せず、日本最大の宗派に発展したのでした。

歎異抄の旅㉔[近畿編]信長、秀吉と『歎異抄』の画像9


木村耕一さん、ありがとうございました。日本の歴史に『歎異抄』が深く関わっているのですね。もっと知りたくなりました。次回もお楽しみに。

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