古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ

今回の古典の名著『歎異抄(たんにしょう)』の理解を深める旅は、「熊谷直実(くまがいなおざね)と『歎異抄』」の後編です。
熊谷直実とは、『平家物語』で有名な武将の一人。熊谷直実の大きな転機とは?
木村耕一さん、よろしくお願いします。

(古典 編集チーム)

(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅㉓[近畿編]熊谷直実と『歎異抄』(後編)の画像1

「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします

(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)

須磨浦公園へ 源氏と平家、激戦の地

──『平家物語』で有名な、一谷(いちのたに)の合戦で、熊谷直実が我が子と同じ年頃(17歳)の平敦盛(たいらのあつもり)を討ったと言われるのは、どの辺りでしょうか?

熊谷直実が平敦盛を討った場所は、神戸市須磨区一ノ谷町の辺りです。合戦の跡地は、現在、須磨浦公園(すまうらこうえん)になっています。訪ねてみましょう。

東京から新幹線に乗って、新神戸へ向かいます。のぞみ号で約2時間40分で着きました。
新神戸から、市営地下鉄に乗り換え、板宿(いたやど)へ。
さらに山陽電車に乗り換え、須磨浦公園駅で降りると、目の前に海が広がっていました。

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──でも、駅から浜辺は見えませんね。砂浜があるのかどうかも分かりません。

はい、海岸線ギリギリまで国道と鉄道が並行して走っているのです。

駅の裏手には、高い山がそびえています。
確かに、こんな山の上から、源氏が馬で駆け下りてくるとは、平家の誰も予想できなかったと思います。

駅前の公園を東へ進むと、松林の中に、
「源平史蹟 戦の浜」
と刻まれた石碑が建っていました。

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熊谷直実が、蓮生房と生まれ変わる

──木村さん、一谷で、17歳の平敦盛を討った熊谷直実は、その後、どうなったのでしょうか。

直実は、「死んだらどうなるのか」と思うと、真っ暗になる心に驚きました。何としても、この不安な心を解決したいと願ったのです。
ある人から、「法然上人(ほうねんしょうにん)の教えを聞きなさい」と勧められた直実は、京都の吉水草庵(よしみずそうあん)へ向かいます。

後生(ごしょう)暗い心に悩む直実は、法然上人の前へ出ました。

「多くの人を殺した私に、救われる道がありましょうか」

「阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)は、そんな悪人のために建てられたのです。一心に弥陀の本願を聞きなさい。善人でさえ救われるのです。悪人が救われないはずがありません」

その時、筋骨たくましい直実が、赤子のように泣き崩れたのでした。

「八つ裂きにされても、私ごとき者が助かる術(すべ)はなかろうと覚悟してまいったのに……。こんな者を救ってくださる阿弥陀仏のご本願があったとは……」

熊谷直実は、法然上人のお弟子となり、「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」と法名(ほうみょう)を賜ったのです。「蓮生房(れんしょうぼう)」とも呼ばれています。
かつて、「日本一の剛の者」と名乗った口からは、念仏の声が絶え間なくあふれていました。

赤ん坊が、松の木の根元に。一体、誰の子なのか

──熊谷直実は、ガラリと変わったのですね。一方、討たれた平敦盛に心が掛かります。後日談はありますか?

「直実入道蓮生一代事跡(なおざねにゅうどうれんせいいちだいじせき)」には、次のようなエピソードが記されています。

法然上人が、比叡山(ひえいざん)への登り口の近くにある一乗寺村(いちじょうじむら)を通られた時のことです。

下り松(さがりまつ)の周りに、多くの人が集まっていました。
松の木の根元に、赤ん坊が捨てられていたのです。しかも、美しい小袖に包まれているので、身分の高い人の子であることが分かります。

この頃は、合戦に勝利した源氏が、平家の残党狩りを厳しく行っていました。子供であっても、容赦なく捕らえられ、処刑されていたのです。

もし、目の前で泣いている赤ん坊が、平家の血筋の子であったなら、どんな災難に巻き込まれるかしれません。
人々は、「かわいそうに……」と言って涙を流しても、赤ん坊の命を救おうとはしませんでした。

その場を通りかかられた法然上人は、次のようにおっしゃいました。

「私たちが今、人間界に生まれることができたのは、とても有り難いことなのです。お釈迦さまは、3千年に1度しか咲かない優曇華(うどんげ)の花が咲くよりも、人間界に生を受けるのは、めったにないことだと教えられているのですよ。おめでたいことなのです。だから、どんな迫害を受けようと、この子を見捨てて通ることができません。このままでは死んでしまうではありませんか。よしよし、私に任せなさい」

法然上人は、赤ん坊を抱きかかえて、吉水草庵へ連れていかれたのでした。
そして、乳母を探して子供の養育を頼まれたのです。

──法然上人にお会いできてよかったですね。

はい。しかしこの子は、名前も分かりません。
「母から放たれた童」という意味で、皆から「放童丸(ほうどうまる)」と呼ばれるようになりました。

放童丸は、すくすくと育ち、7歳の春を迎えました。
乳母が、放童丸に美しい桜を見せてやりたいと思って、清水寺へ花見に連れていった時のことです。

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そこは家族連れでにぎわっていました。放童丸は、自分と同じ年頃の子供が、皆、父と母に手を引かれ、笑いながら歩いているのを見て、だんだん元気がなくなっていきました。
もう桜を楽しむ心は起こりません。

「どうして、僕には、お父さんも、お母さんもいないの……」
と泣き出してしまったのです。

放童丸は、吉水に帰ると法然上人の前にやってきて、
「僕の、お父さん、お母さんは、どこにいるの」
と、涙を流しながら尋ねます。

法然上人は、いつまでも隠してはおけないと思われ、真相を告げる決心をされました。
おまえは赤ん坊の時に松の木の根元で一人で泣いていたこと、両親の手掛かりは全くないこと、それでも吉水の皆が大事に育ててきたことを優しく話されたのです。

しかし、放童丸の受けたショックは、予想以上に大きなものでした。
その日から、食事ものどを通らず、寝込んでしまったのです。体は次第に、やせ細っていきます。どんな薬も効果がありませんでした。

──放童丸、心配です。どうなってしまうのでしょうか。

法然上人は、乳母を呼んで尋ねられました。

「放童丸は、皆に大事にされているようだが、その中でも、わが子のようにかわいがっている人はいなかったかな」

はい、おります。法然上人のご説法の時に、いつも参詣している20代の女性です。放童丸も、まるで母親のように、その人になついていました。ただ、最近は、ご法話がなかったので姿を見ていません。どこに住んでいる人かも分かりませんので、訪ねていくこともできないのです」

そこで、法然上人は、吉水でのご説法の最後に、
「放童丸が、父母恋しさのあまり病気になり、明日をも知れぬ命になっています。皆さんの中に、あの子の親を知っている人はありませんか……」
と呼びかけられましたが、何の手掛かりも得られませんでした。

ところが、参詣者が帰ったあと、本堂に1人の女性が残っていたのです。
私が、その子の母でございます。子を捨てたその日から、法然上人に拾い上げられたことを知り、陰ながらありがたく拝んでおりました。私は、平家に連なる身ゆえ、名乗ることができなかったのです……」
と泣きながら申し出ました。

病床に案内された母は、やつれたわが子の姿に、胸が締めつけられる思いでした。涙をこらえて、優しく、
「放童丸よ、私が母ですよ。何を嘆いているのです」
と、頭をなでていたわります。

放童丸は、枕から重い頭を上げて、
ああ、会いたかった……。どうして、この頃は姿を見せてくださらなかったのですか。本当の母ならば、どうして、もっと早く言ってくださらなかったのですか。実の母とも知らず、これまで過ごしてきたことが、悔しくて、悔しくてなりません……」
と泣きながら、母の膝にすがりつくのでした。

放童丸は、母の顔を見つめて、涙に暮れています。母は、かける言葉もなく、ただ、ぎゅっと、わが子を抱きしめるしかありませんでした。

涙ながらに、母は言います。
「今日まで、母であることを告げられなかったのには、深い訳があるのですよ。父も母も、世の中から捨てられ、隠れて生きるしかなかったのです。愛しいたった一人の子を、育てることができなくなったので、断腸の思いで、おまえを捨てたのです。許しておくれ。今日からは、母がそばにいるからね……」

放童丸は、さもうれしそうに、
「では、お父様は、どこにおられるのですか
と聞いてきます。

母の目には、再び涙があふれ、
「この世には、もうおられません……。父の名は、平敦盛。一谷の合戦で、熊谷直実に討たれたのです」
と明かしたのです。

それでも母に会えたことで、放童丸は、日ごとに元気を取り戻していきました。

ある日、蓮生房と生まれ変わった熊谷直実は、法然上人に、
「放童丸を、とてもかわいがっておられますが、どなたの子ですか
とお尋ねしました。

すると法然上人は、にっこりほほえまれて、

「おまえに深い関係のある人だよ」

「もしや……」

「そうだ。あの子の父は、平敦盛殿だよ。放童丸と、その母親が、明日の法話に参詣するから、会わせてやろう」

蓮生房は、言葉を失いました。
「実は、敦盛殿が肌身離さずに持っておられた形見の品を、私は預かっているのです。いつか身内の方にお渡ししたいと思って、探していたのです。まさか、こんな近くに……

法然上人から、これまでの経緯を詳しくお聞きした蓮生房は、一谷で敦盛を討った時のことを思い出し、声をあげて泣き出してしまいました。

次の日、蓮生房は、法然上人の部屋に呼ばれました。
そこで初めて、敦盛の妻と対面したのです。蓮生房は、自分が、かつての熊谷直実であることを告げ、戦場から持ち帰った敦盛の形見の品を渡したのでした。

まさに見覚えのある懐かしい品でした。夫の姿がまぶたに浮かんできて、悲しさと恨みが同時に込み上げてきます。
放童丸も、この人が父の敵(かたき)か、という目で見つめていました。

法然上人は、親子に向かって、次のように諭されました。

「決して蓮生房を、親の敵、夫の敵と恨んではなりませんよ。たとえ直実が敦盛殿を討たなくても、平家の人々は、遅かれ早かれ、海の底に沈んだでしょう。直実であったからこそ、今、こうして形見の品を届けてくれたのです。
先に亡くなった敦盛殿が、残された二人に望んでいるのは何でしょうか。幸せに生きてほしい、これ一つのはずです。それは、かつての平家一門のように華やかに暮らすことではないぞ、そんな幸せは続かないぞ、いつ死が襲ってくるか分からないぞ、と身をもって教えていってくれたのが敦盛殿ではありませんか。
そなたたちは今、弥陀の本願にあうことができたのだ。仏法を聞き求め、この世も、未来も、永遠に救われる真実信心を獲得してこそ、敦盛殿が最も喜ばれるのではないかな」

母と子の心から、恨みの炎が消えていきました。そして、法然上人のご法話がある時は、必ず親子で参詣し、喜びあふれる生活を送るようになったのです。

その後、蓮生房は、敦盛の命日である2月7日に、放童丸とその母を連れて、一谷の合戦の跡地を訪れたと伝えられています。

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勇敢に戦った敦盛がいたからこそ、三人とも、浄土仏教を聞くご縁に恵まれたのです。その感謝の心を伝える旅だったに違いありません。

弥陀の本願の前には、源氏も平家も、敵も味方もありません。恩讐(おんしゅう)を超えて、平等に救われるのです。

(原文)
弥陀(みだ)の本願(ほんがん)には老少善悪(ろうしょうぜんあく)の人をえらばず、ただ信心を要(よう)とすと知るべし。
そのゆえは、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生(しゅじょう)を助けんがための願にてまします。
(『歎異抄』第1章)

(意訳)
弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、一切差別はない。ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。
なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのかといえば、煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために建てられたのが、阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである。
(意訳は 高森顕徹著『歎異抄をひらく』より)


木村耕一さん、ありがとうございました。『平家物語』から『歎異抄』へと物語がつながっていて、感動しました。次回もお楽しみに。

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