古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ

今回の古典の名著『歎異抄(たんにしょう)』の理解を深める旅は、「熊谷直実(くまがいなおざね)と『歎異抄』」。
熊谷直実といえば、JR熊谷駅(くまがやえき。埼玉県熊谷市)にある騎馬像を思い出します。
『歎異抄』と、どんな関係があるのでしょうか?
木村耕一さん、よろしくお願いします。

(古典 編集チーム)

(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅㉒[近畿編]熊谷直実と『歎異抄』(前編)の画像1

「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします

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──木村さん、『歎異抄』を書いたのは、唯円(ゆいえん)ですよね。唯円の先生が、親鸞聖人(しんらんしょうにん)。『歎異抄』にも、「親鸞は弟子一人も持たず候」など、お名前が登場します。では、親鸞聖人の先生は、どなたでしょうか?

はい、法然上人(ほうねんしょうにん)です。
親鸞聖人は、29歳の時、法然上人のお弟子になられました。
法然上人のお弟子の中には、『平家物語』で有名な武将がいました。
熊谷直実です。

──え、熊谷直実といえば、JR熊谷駅に騎馬像がありますよね。あんなに立派な武士が、どうして、仏教を聞くようになったのでしょうか?

不思議ですよね。熊谷直実は、源義経(みなもとのよしつね)の軍勢に加わり、平家と戦っていた荒武者です。
そんな直実がどうして仏教を聞くようになったのでしょうか。
そして、鎧を脱ぎ、刀を捨てて、仏教を伝えるようになったのでしょうか。
彼の心の変化には、『歎異抄』の教えに通ずるものがあります。

──それは、知りたいです。

熊谷直実に、大きな転機を与えたのが、一谷(いちのたに)の合戦でした。

一谷の合戦

親鸞聖人が9歳で出家された年に、平清盛(たいらのきよもり)が病で亡くなりました。それまで、都で権力を握り、栄華を極めていた平家の勢力は急速に衰えていきます。

──権力者が交代する、激動の世の中ですね。

源氏の大軍が迫ってくると、恐れをなした平家は、自らの屋敷を焼き払い、一族そろって京都から脱出したのです。
悲しい思いで船に乗り、九州へ逃れた平家でしたが、その後、瀬戸内海沿岸の豪族を従え、勢力を盛り返すことに成功します。

──やはり平家は力がありますね。

再び京都へ入って権力を握ろうとして、一谷(いちのたに)に10万余騎の軍勢を集結させました。現在の兵庫県神戸市須磨区(すまく)の辺りです。

ここは、山と海に挟まれた細長い海岸です。背後の山は切り立っているので、敵が攻めてくる心配はありません。海岸の西と東の入り口を守れば、堅固な要塞を築くことができます。

一谷には、平家の目印である赤旗が、風に吹かれて無数にひるがえり、まるで赤い炎が勢いよく燃え上がっているようだったと『平家物語』は記しています。

──美文ですね。情景が目に浮かぶようです。

これに対し、源氏の軍勢は二手に分かれて京都を出発しました。
源範頼(みなもとののりより)が率いる本隊は5万騎で海沿いを進み、東側から一谷を攻めます。
別動隊の源義経は、1万騎を率いて西側から一谷を攻撃する計画です。熊谷直実は、源氏の武将として義経の軍に加わっていました。

歎異抄の旅㉒[近畿編]熊谷直実と『歎異抄』(前編)の画像2

寿永(じゅえい)3年(1184)2月7日。早朝から、激しい戦闘が始まりました。
しかし、源氏は平家を破ることができません。

戦いの流れを一気に変えたのが、源義経の奇襲戦法でした。背後の険しい山から馬で急斜面を駆け下りて、次々と平家の陣営に火を放ったのです。これが、世にいう「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」です。

──「鵯越の逆落とし」は有名ですね。知っています。

全く予想もしていなかった方角から源氏が攻めてきたので、平家は大混乱。慌てて、海へ向かって逃げていきます。

1艘の船に、重い鎧を着た武者が4、5百人も駆け込んだのですから、たまったものではありません。岸を離れると、すぐに沈没してしまった大船が、3艘もあったといいます。

──それは、恐ろしいです。

悲劇は、それだけではありませんでした。先に船に乗った者たちは、
「身分の高い人を乗せてもいいが、雑兵どもは乗せるな」
と言って、船に取りすがる人たちの手を、太刀(たち)や長刀(なぎなた)で、次々に斬り払ったのです。
仲間が斬られていく光景を見ながらも、平家の武者たちは、「助けてくれ」「俺だ、乗せてくれ」と叫んで、船に取りつき、手を伸ばしてきます。情け容赦なく、ある者は腕を斬られ、ある者はひじを斬られ、海へ沈んでいくのでした。

「われこそは、日本一の剛の者、熊谷直実なるぞ!」

──源氏の武将・熊谷直実は、どんな戦いをしていたのでしょうか?

実は、敵陣への一番乗りを目指していたのですが、ともに戦っていた息子が負傷してしまったのです。介抱していたため、思う存分、活躍することができませんでした。

──父親としての優しい一面もあったのですね。

はい。ですが、直実は焦ります。
「出遅れてしまった! 何としても手柄を立てねば!」
「平家の武者は、船に乗ろうとして波打ち際へ逃げるに違いない」
と言って、海岸へ向かいます。

すると、沖の船を目指して馬を泳がせている武将を見つけたのです。
兜や鎧、りっぱな馬を見ても、身分の高い武将に違いありません。

直実は扇を上げて招きながら、大音声で叫びました。

「そこに行くは平家の大将と見受けたり。敵に後ろを見せるとは、卑怯千万。返せ、返せ!」
さらに、
「われこそは、日本一の剛の者、熊谷直実なるぞ。いざ、尋常に勝負せよ」
と名乗りを上げたのです。

波間かなたの武将は、
「おうっ」
と答え、引き返してきます。

双方、だっと馬を進めて、駆け寄りざまに斬り合います。

歎異抄の旅㉒[近畿編]熊谷直実と『歎異抄』(前編)の画像3

しかし、力の差がありすぎました。平家の武将は、たちまち刀を払い落とされ、直実に組み伏せられてしまったのです。

合戦のならわしに従い、敵の首を斬ろうとした瞬間、直実の手がピタリと止まりました。

──どうしたのでしょうか?

兜の中は、荒武者ではなく、薄化粧をした若者だったからです。

年は16、7歳に見えます。負傷したわが子と同じ年頃でした。

「この子にも、親があるだろうに……」
こう思った時、直実の心は、もろくも崩れていました。

「俺の名を聞けば逃げ出す者ばかりなのに、そなたは、恐れずに馬を返した。あっぱれだ。名は何と申す」
若者は名乗りません。
「さあ、早く討て。戦で死ぬは武士の本望。この首を味方に見せて聞くがよい」
と言い切ります。

直実は、考え込んでしまいました。
「ああ、りっぱな武将だ。この若者一人を討ったところで、戦の勝敗は変わらない。源氏はすでに勝ったのだ。助ける方法はないだろうか……」

その時、後方から源氏の軍勢が50騎ほど、こちらへ向かってくるのが見えました。

直実は、涙をこらえて言いました。
「助けたいのはやまやまだが、決して、逃げることはできないだろう。他の者に討たれるくらいならば、この直実の手にかけて、後の供養をいたそう」

直実は、若者があまりにもかわいそうで、どこに刀を刺してよいかも分からず、目の前が真っ暗になりました。しかし、泣く泣く首を討ったのです。

倒れた若者の腰には、錦の袋に入った笛が差されていました。

「味方に東国の軍勢が何万人もいるが、戦場に笛を持ってきた者はいないだろう。なんと心優しい武将だろうか……」
深い因縁を感じた直実は、遺品として笛を預かることにしました。

直実が、味方の陣に帰ってから、この若者の素性を尋ねると、平経盛(たいらのつねもり。清盛の弟)の子で、名は敦盛(あつもり)、17歳だったと分かりました。

源義経は、
「今日の戦いの中で、抜群の功名である。後に恩賞をとらすであろう」
と直実の働きを称賛したといいます。

しかし、直実は、がっくりと膝をつき、こう述懐するのでした。

「釈迦は、『諸行無常』と教えられたと聞くが、まことに、すべてのものは無常だ。どんなに威勢のよい者にも、必ず衰える時が来る。
今、平家が没落していくように、源氏もいつまで続くことか……。いや、人ごとではない。わが身の命は、どうなのだ。明日まで生きておれる保証は、どこにもないではないか。
いくら戦とはいえ、俺は殺生(せっしょう)の限りを尽くしてきた。恐ろしい罪悪を重ねてしまった。こんな俺は、死んだら、どうなるのだろう……」

この時から、熊谷直実は、出家して仏教を聞き求めたいという気持ちが強くなったのでした。


木村耕一さん、ありがとうございました。「諸行無常」といえば、『平家物語』の冒頭は、「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常の響きあり」でしたね。熊谷直実は、その後、どうなったのでしょうか。次回、須磨浦公園(すまうらこうえん)を訪ねて、直実の心の軌跡を追ってみましょう。お楽しみに。

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