1. 仏教

『歎異抄』の魅力を徹底解剖!知られざる日本の大ベストセラーとは?

仏教書最大のベストセラーを知っていますか?

世界で一番のベストセラーといえば、キリスト教なら「聖書」、では仏教書なら何でしょうか?

答えは、『歎異抄』です。

『歎異抄』とは、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書で、浄土真宗の祖・親鸞聖人の言葉が紹介された本として有名です。中でも、

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや(第3章)

は、日本の古典として最も親しまれている一文でしょう。

高校の倫理や日本史の教科書には、たいていこの悪人正機(あくにんしょうき)が引用されていますので、この部分だけは知っているという人も多いかもしれません。

実は、大学入試センター試験では、毎年のように、この『歎異抄』から出題されています。

今年(平成30年)の倫理の問題文には、「親鸞は弟子一人ももたず」という一節が引用されました。

「親鸞は、煩悩に向き合い悪人の自覚を深める中で

絶対他力の信仰を獲得し、その布教に努めた。

救済は仏の力によるほかないと考えた彼は、

親鸞は弟子一人ももたずと語った」

(平成30年大学入試センター試験・「倫理」の問題文より引用)

著者不明の本が、なぜこれほどまでに読まれる?

それだけ有名で、多くの人に読まれている『歎異抄』ですが、実は著者は「不明」なのです。おそらく、親鸞聖人の弟子の一人の唯円(ゆいねん)ではないかと言われていますが、確証はありません。

聖人亡き後、教えと違うことを言いふらす者が次々と現れたため、それを正すために「異なることを歎く書(抄)」として書かれたのが『歎異抄』です。

では、「著者不明」の本が、どうしてここまで有名になったのでしょうか。

いろいろな理由が考えられますが、一番は、やはり「親鸞聖人の言葉を伝えている」という点でしょう。

戦後出版された本の中で、最も多く語られた歴史上の人物は、親鸞聖人だといわれています。歴史上の人物ベストワンと評する人もあります。

その教えを知るには、親鸞聖人の主著『教行信証』を読む必要があります。しかし、一般人にはあまりにも難解で大部な本のため、短くて親しみやすい『歎異鈔』が、かっこうの入門書となり、宗教や宗派の枠を超えて爆発的に広まっていったのです。

ですから、歎異抄が読まれるということは、それだけ親鸞聖人に関心を持っている人が多いといえるでしょう。

『声に出して読みたい日本語』シリーズで有名な、齋藤孝さんは、本の中で次のように語っています。

『歎異抄』を声に出して読むと、親鸞が生の声で自分に語ってくれているという感触が伝わってきます。

この(歎異抄の)言葉そのものに出会うことができなかったとしたら、おそらく、日本人にとっては非常に大きな損失であったでしょう。

(「声に出して読みたい日本語 音読テキスト(3)歎異抄」より引用)

三大古典(古文)の一つ、流れるような名文の魅力とは?

『歎異抄』のもう一つの大きな魅力は、流れるような名文で書かれているところです。

平安時代末期~鎌倉時代、約60年間隔で作られた方丈記』『歎異抄』『徒然草の3つの古典は、特に名文で名高く、日本を代表する三大古典(古文)とも評されています。

それぞれ有名な冒頭の文章に触れてみましょう。

『方丈記』鴨長明

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて久しくとどまりたるためしなし。

『歎異抄』

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

『徒然草』兼好法師

つれづれなるままに、日くらし硯にむかいて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

独特のリズムと心に響く文体は、特に文筆を志す人たちに親しまれ、愛唱されてきました。そのエッセンスは、近現代の文学や芸術の根底に根づいているといっても過言ではありません。

500年前に一度封印された書。カミソリ聖教と呼ばれる理由は?

極めて美しい文章で書かれ、読む人の心を揺さぶる『歎異抄』ですが、実は500年前(室町時代)、浄土真宗の中興・蓮如上人によって封印された書としても知られています。

その奥書には、

「『歎異抄』は浄土真宗の大事な聖教ではあるが、親鸞聖人を誤解させるおそれがあるから、仏縁の浅い人に見せてはならぬ」

と、一度は門外不出の秘本として閉じられたことが明記されています。

右この聖教は、当流大事の聖教たるなり。無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり」

(釈蓮如)

美文でリズミカルに理解されやすい反面、誤解も生まれやすいという問題をはらんでいるのです。

実際、いわんや悪人をやを、「悪いことをしたほうが救われるのだ」と聞き誤り、悪人製造の教えのように間違っていった人が後を絶ちませんでした。

大人にとっては重宝なカミソリでも、子どもが持てば、周りを傷つけ、ついには自分をも傷つけてしまう危険があるようなものです。

ここから“カミソリ聖教”と恐れられ、長い間、厚いベールに包まれていくことになります。

明治から昭和にかけて巻き起こった「歎異抄ブーム」とは?

それが明治時代後半になって、一気に歎異抄ブームが巻き起こります。

きっかけは、歎異抄の“親鸞思想”に魅せられた学者たちの、仏教改革運動から始まりました。

ところが、各地での講演や雑誌での連載が目立つようになると、その影響は仏教界のみならず、哲学界、思想界、精神分析界、文学界へと広がっていきます

少し話は変わりますが、「哲学者」と聞いて、誰をイメージするでしょうか?

ソクラテスやプラトン?それともデカルトやカントでしょうか。

最近はニーチェが人気で、『ニーチェの言葉』をはじめ、ニーチェがコンビニ店員になったり(『ニーチェ先生~コンビニに、さとり世代の新人が舞い降りた~』)、京都に現れたり(『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』)と、いろいろなところで取り上げられています。

他にも多くの名前が浮かぶでしょうが、おそらくあなたの頭に浮かんだのは、「西洋の」人ばかりではないでしょうか。

では日本に「哲学者」はいなかったのか?というと、そうではありません。

世界に認められた哲学者として、「日本の三哲」と言われたのが、西田幾多郎三木清田邊元です。

実は、これらの3人はみな、『歎異抄』に説かれている思想をバックボーンにして、自らの哲学を構築した人なのです。

「日本の三哲」の筆頭である西田幾多郎は、一切の書物を焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる」と語ったと言われています。

これ一冊でいい、ここまで言い切れる本は、そうそうは巡り合えないものでしょう。

また、高校時代に『歎異抄』に感銘を受けた三木清は、

万巻の書の中から、たった一冊を選ぶとしたら『歎異抄』をとる

(三木清)

と述べています。

田邊元も、自らの哲学的思索の行き詰まりを感じた末、『歎異抄』に行きつき、

親鸞聖人は私の哲学において、学ぶべき師であり、指導者である

(田邊元)

と、『懺悔道としての哲学』に書いています。

歎異抄に魅せられた、劇作家や文豪たちは?

歎異抄に心酔した人は、哲学者だけではありません。

唯円の恋愛をテーマに、戯曲『出家とその弟子』を創作したのは、劇作家の倉田百三です。この本がベストセラーとなり、親鸞ブームの火付け役の一つとなりました。

そして次のような言葉を残しています。

『歎異抄』よりも求心的な書物は、おそらく世界にあるまい

この書には、また、もの柔らかな調子ではあるが、恐ろしい、大胆な、真剣な思想が盛ってある。

見方では毒薬とも、阿片とも、利刃ともとれる。

そしてどこまでも敬けんな、謙虚な、しかし真理のためには何ものをも恐れない態度で書かれているのである。

文章も日本文としては実に名文だ

国宝と言っていい

(倉田百三『法然と親鸞の信仰』より引用)

ある日本大衆文学の巨匠も、

無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ。」

と言い、著書には、

「十三世紀の文章の最大の収穫の一つは、親鸞の『歎異抄』にちがいない。」

と言い切っています。

文章家として、最大級の賛辞といえるでしょう。

他にも、吉川英治をはじめ、石丸梧平、野間宏、丹羽文雄、吉本隆明といった名だたる文豪が、その深い思想に魅せられていったのです。

歎異抄とはいったいどんな本?その構成は?

では、そんな歎異抄には、いったいどんなことが書かれているのでしょうか。

「歎異抄」の構成は、全部で18章です。一番初めに「序」、18章の後には「後序」があります。

ある思想についての本であれば、普通は導入から始まり、徐々に深くなり、最後に結論として核心部分がある、と思われるのではないでしょうか。

実はこの「歎異抄」は、前半と後半で大きく内容が分かれるのです。

前半の1~10章は、著者が「親鸞聖人からこのようにお聞きしました」という内容が収まっています。

後半の11~18章は、前半の内容を基準にして、著者が当時、人々に広まっていた異説(親鸞聖人が教えられたことと異なる内容)を正そうとしたもの、という内容です。

書名の「歎異抄」は、「異なるを歎く」ということですから、そういう点から言うと、「歎異抄」の本番は後半部分といえるかもしれません。

しかし当時の異説というのは、今日はあまり耳にすることのないものが多く、大切なのは親鸞聖人の言葉が書かれた、最初の10章ということになります。

ですから、「歎異抄」を学ぼうとされる方には、ぜひ前半の内容をよく知り、理解していただきたいと思います。

全体の構成と、特に主要な1~10章の大まかな内容を以下に示しました。

1~10章の内容は、『歎異抄をひらく』からの引用です。

【歎異抄の構成】

(1)序文

(2)1章~10章(親鸞聖人の言葉)

第一章 仏法の肝要、を言われた親鸞聖人のお言葉

第二章 親鸞聖人の鮮明不動の信念

第三章 有名な悪人正機を言われたもの

第四章 二つの慈悲を説かれたもの

第五章 すべての人は父母兄弟──真の孝行を示されたもの──

第六章 親鸞には弟子一人もなし──すべて弥陀のお弟子──と言われたもの

第七章 弥陀に救われた人、について言われたもの

第八章 他力の念仏、について言われたもの

第九章 念仏すれど喜べない──唯円房の不審に答えられたもの──

第十章 他力不思議の念仏、を言われたもの

(3)別序(11章以降の序文)

(4)11章~18章(邪説の批判)

(5)後序(法友思いの親鸞聖人が、師匠・法然上人のもとで行った教義論争。常なる述懐など)

(6)法然上人門下が、権力者の横暴で罪を着せられた記録。親鸞聖人は越後へ流刑に。

(高森顕徹著『歎異抄をひらく』より引用)

有名な「悪人正機」とは、悪いことをする人ほど救われるの?

「歎異抄」でもっと有名な一節は、

善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや

でしょう。これは、「悪人正機」を表した言葉です。

悪人正機とは、悪人が救いの正客だということですが、こう聞くと、「それはおかしいのでは?」「善人よりも、悪人がいいことになる」と疑問に思われるでしょう。常識とは逆だからです。

常識では、悪人よりも善人がいいのは当然ですし、もし悪人のほうが救われるなら、どんどん悪を造ったらいいということになってしまいます。

実はこのパラドックスこそが、親鸞聖人の教えの核心部分であり、仏教そのものの深い内容からきているところなのです。

それを、「歎異抄」では流れるような名文で、かつ心に響く、一見不思議な表現で書かれているので、誰もが驚くのでしょう。

ここではその全てを説明することはできません。ただ歎異抄の「悪人」とは、単純に犯罪行為を犯した人や、人から後ろ指さされるような言動をしている人、というだけの理解では収まらない、深い人間観からきているものなのです。

この点については、ぜひ仏教を体系的に学び、その人間観を知っていただきたいと思います。

「念仏を称えれば助かる」と教えられたのが親鸞聖人?

「歎異抄」には、念仏が多く出てきます。

ということは、「念仏を称えれば助かる」と教えられたのが、親鸞聖人だと思っていませんか?

確かに、この「歎異抄」には「念仏」という言葉が多く出てきます。実際に親鸞聖人の著作でも、「念仏」はよく取り上げられる、重要なキーワードではあります。

ですが、これは「南無阿弥陀仏(念仏)」を口で称えるというだけの意味ではなく、これまた仏教の核心的な、非常に深い教えからきているものなのです。

実際、以前の歴史の教科書では、親鸞聖人のことを、

「ただ一度の念仏で、極楽往生が約束されると説いた」

と解説されていたものがありました。

ところが、これは「念仏」の解釈への大きな誤解だとして論争が巻き起こり、最終的には、記述が訂正されるということがあったのです。

 

一言で「念仏」といっても、単に口で念仏を称えるというだけの単純な意味ではない、とお分かりになると思います。この点も、ぜひよく理解できるよう学んでいっていただければと思います。

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話題の古典、『歎異抄』

先の見えない今、「本当に大切なものって、一体何?」という誰もがぶつかる疑問にヒントをくれる古典として、『歎異抄』が注目を集めています。

令和3年12月に発売した入門書、『歎異抄ってなんだろう』は、たちまち話題の本に。

ロングセラー『歎異抄をひらく』と合わせて、読者の皆さんから、「心が軽くなった」「生きる力が湧いてきた」という声が続々と届いています!

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