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子どものいたずらにも大切な意味が。遊びやいたずらの見方を変えるたった1つの視点とは

朝の支度や食事の準備など、「今は時間がない!」という時ほど、子どもは邪魔をし、いたずらをしてきます。

子どもは、じっとしていることがありません。

イライラ度マックスを少しでも落ち着けるにはどうすればいいでしょう?

児童臨床家の佐藤幸子さんに、そのヒントをお聞きしました。

大人にとっては困った行動にも大切な意味があります

子どもは、ママのすること、なすことすべてに常にアンテナを張りまくり(張り込み中の敏腕刑事みたい…)、しかも、いちいちチェックを入れます。

その観察力は半端なく、しかも獲得した情報は、あらゆる手を使ってでも、必ず実行に移そうとします。

ママの「米とぎ」をじーっと見ては、ついにお米の計量カップにまで手を伸ばし、結果、床の上はお米だらけ…(だれが、掃除するのよ!)。

食器洗いで隣にイスを出してきては、即、服がビチャビチャになってもやめない…(寒い日でもおかまいなし、この子の皮膚感覚はどうなっているの?と、もう理解不可能!)。

1人でやれば10分で終わるのに、なんと30分のロス!
母親のうんざり度はマックスです。

ママたちは口をそろえて「できもしないくせに…」とつぶやきます。

ほんとに、子どもたちの、あの根拠なき自信、万能感はどこから来るのでしょうね?

しかし考えてみると、身の周りのさまざまな事象を存分に観察したり、壊したり、ばらまいたりして、実際に確かめる時間や空間がじゅうぶんに確保されるのは、人としてこの世に生を受けてから、わずか数年の間なのです。

幼児教育の大切さは、まさにここにあるといっても過言ではありません。

子どもにとっては、取り巻く世界のすべてが魅力的で、不思議で、輝きに満ちているのでしょう(確かに子どもの瞳って、吸い込まれるように澄んでいて、きらきら輝いていますよね!)。

ところが幼稚園を卒園し、小学校に入ると、机とイスにはさまれ、自由に飛びあがることもできなくなります。

そして学年を上がるごとに、許されることが一つずつ減っていくのです。

そう考えると、みずみずしい心をフルに動かして、すべてのことに興味や関心を示し、結果をまったく気にせず、やみくもに実行してしまう子どもの姿は、まさに感動そのものなのです。

大人になるにつれてすっかり忘れ去ってしまった大切な宝の箱を、日々開けて見せてもらっている気がします。

遊びに満ちていたはずの子どもの世界が、今は、指示され、命令され、強制される「仕事」ばかりになってはいないでしょうか。それが、子どものやる気をそぎ、ひいては、学ぶこと、働くことに、苦痛しか感じられなくさせているように思います。

(出典 明橋大二著(2006)P25『子育てハッピーアドバイス3』より)

遊びやいたずらこそ、最高の幼児教育

このような視点で再度、子どもを見つめてみると、どうでしょうか?

「いやー、米粒が魅力的だなんて思ったこともないけど、一粒一粒に集中できるなんて、すごい!」

「食器洗いがなければ、家事が楽だと思っていたけど、水や茶碗一個で、そんなに楽しめるんだ!」

ちまたでは、英才教育の情報があふれています。

でも、 意欲的に米粒を観察したり、いじったり、茶碗の汚れが水できれいになる過程を自分で確かめたりすることのほうが、実は「生きた学び」なのです。

皆さんも、今までは、迷惑や邪魔としか思えなかった子どもの行動を、このような視点で見ると、急に「うちの子、天才!」と輝いて見える現象がたくさん出てくると思います。

春先の、まだ肌寒い時期でした(ブルブル…)。

3歳の孫が、雨上がりのアスファルトにたまった水たまりを、何度もびちゃびちゃと長靴で跳びはね、長靴の中を水たまりにしてくれました。

「むむむ、このくそ寒い日に、何でこんなことを?」

と、一瞬思わなくもなかったのですが、

「……いやいや、長靴の深さと水の飛び跳ねる距離の関係をつかもうとしているのだ!将来は物理学者、間違いない!(本当かな?)」

と自分に言い聞かせ、風邪を引かないように靴下を替え、長靴を乾かしてやりました(ふーっ、「育ばーば」も大変です!)。

実際には、いたずらのレベルのあまりの高さに、子どもを見る視点を変えることが急には難しかったり、忍耐と努力が必要だったりすることもあります。

かくいう私も、孫との関わりでは、正直、忍耐を強いられています。

「もー、何でこうなの?」と頭ごなしに叱りたくなる気持ちも、よーく分かります。

ですので、手はじめに、少しでも怒りの心にブレーキがかかるきっかけにしていただければと思っています。

それでも怒ってしまう時の、視点の変え方とは

子育てには、これで終わりということはありません。

私ごとで恐縮なのですが、昨年夏、95歳の父親を長い介護の末に看取りました。

今朝食べた食事はおろか、5分前に入った訪問入浴でさえ覚えていないほど。
寝たきりでやせ細り、耳も遠く、第三者から見れば、よぼよぼの父でした。

しかし、何よりも驚いたのは、そんな父が私にかける言葉でした。

「ちゃんと眠っているのか?」「無理すんなよ」「ご飯食べたのか?」

父にとっては、61歳の私はまだもって案じられてならない大事な子どもだったのです。
自分が世話をしてやっているというのは、とんでもない思いあがりでした。
父のほうが心の中でいつも私の体調を案じていたのです。

そういえば、24年前に1年間の闘病の末、病気で亡くなった母も、夜中の看病中に、ベッドわきでうたた寝をする私に、「寒くはないか?」と自分の布団を掛けようとしてくれたことを、ふと思い出しました(その後、間もなく亡くなってしまいました。69歳という若さでした)。

その情景を思い浮かべるだけで、言葉にならない親の深い思いを知らされ、涙せずにおれません。

かつて、3人の子育てがあまりにも大変で、心身ともに行きづまっていた時、「3歳になれば…、5歳になれば…、小学生になれば…、中学生になれば……」いつか子育てから解放される時が来ると、そればかりを願って日々がんばっていました。

つまり、「いつか子どもが大きくなれば、子育ての重圧から解放されるはず。だから、今は次々と心配や悩みは出るけど、もう少しの辛抱、辛抱…」と、日々自分に言い聞かせ続けてきました。

しかし、ようやく分かったのです。

親というものは、自分の命が尽きる直前まで、子どもが何歳になろうとも、ひたすら案じ続け、心配し続ける、そういう存在なのだと。

 父母の恩の重さは、天の高きに限りがないのと同じである。

人々よ。父母の大恩を分けて説くならば、以下の十種になる。

(中略)

十には、究竟憐愍(くきょうれんみん)の恩。

たとえ子供が、どんな高齢になっても、親にとっては子供であり、いつまでも心配し思い続けてくれるご恩。

生きている間は子供の身がわりになることを思い、死んでも常に子供を護ろうとする。

(出典 木村耕一著(2014)『親のこころ3』より)

これは、親の心をつづったエッセー本で紹介されていた、「父母恩重経」の言葉の解説です。

皆さんがもし、お子さんに、「あれもこれもしてやれていない」「今日もほったらかしだった」と自分を追いつめてしまったり、落ち込んでしまったりした時には、この言葉を思い出し、こんなふうに思うといいかもしれません。

「親とは、子どものために悩み苦しみ続ける存在なのだ」と。

「わが子のことをいつも思い続けるからこそ心の痛みが生じ、しかも、とぎれることがないのだ」と。

悩み苦しみが生じるたびに、「子どもという宝によって大きな喜びを得る分、心の痛みも、その分大きいのだ」と、自分に言い聞かせるようにしています。

まとめ

  • みずみずしい心をフルに動かして行動できるのは、子どもにとってはほんの数年。指示・命令ではなく、遊びに満ちた子どもの世界を大切にしたいものです
  • とても理解できないような子どもの行動にも、身の回りの事象を観察したり、確かめたりする、「生きた学び」がたくさん隠されています
  • 「親は子どもが何歳になろうと、心配し思い続けてくれる存在」ということを思い出せば、日々の子育てのイライラや落ち込みが、少しは軽くなるかもしれません。

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