日本人なら知っておきたい 意訳で楽しむ古典シリーズ #49

  1. 人生

歎異抄の旅⑨[京都編] 癒やしの里・大原〜「大原問答」の舞台へ

古典の名著『歎異抄』ゆかりの地を旅する

今回、旅をするのは、京都の大原です。
「癒やしの里」と言われる大原は、『平家物語』や『方丈記』ともご縁がある地だったんですね。
木村さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)

(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅⑨[京都編] 癒やしの里・大原〜「大原問答」の舞台への画像1

「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します

(「月刊なぜ生きる」7月号に掲載した内容です)

「恋に疲れた女がひとり……」昭和の大ヒット曲が、大原を有名に

京都駅から、車で北へ約1時間ほど行くと、比叡山(ひえいざん)のふもとに広がる自然豊かな山里があります。大原です。
車で大原に近づくと、国道の脇に、
「癒やしの里・大原へようこそ」
と書かれていました。
心の癒やしを求めて訪れる旅行者が多いようです。それには、有名な、あの曲の影響が大きいといわれています。
歌い出しは……。
「京都 大原 三千院
恋に疲れた女がひとり……」
(「女ひとり」 作詞・永六輔)
思わず、心の中にメロディが流れる人も多いのではないでしょうか。
昭和40年に、デューク・エイセスが京都のご当地ソングとして歌い大ヒット。その後、由紀さおり、石川さゆり、テレサ・テン、島倉千代子などの女性歌手によってカバーされてきた名曲です。
大原の里に、心の癒やしを求める歴史は古く、平安時代から多くの貴族や文化人が、都を逃れて隠れ住んでいました。
その中でも、平家が滅んだ後に、清盛の娘・建礼門院徳子(けんれいもんいんとくし)が大原の寂光院でひっそり暮らしたのは有名です。
また、当代随一の歌人といわれた鴨長明は、宮中で理不尽な仕打ちを受けたショックから、仕事を放棄して失踪。大原で出家します。しかし、この地で前向きに生きる転機をつかみ、『方丈記』を書き残しました。

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日本の仏教界の大事件とは

文治(ぶんじ)2年(1186)、この静かな山里で、日本の仏教界を揺るがす大事件が起きました。
世に名高い「大原問答(おおはらもんどう)」です。
天台宗(てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)など、仏教の伝統的な宗派を代表する学者たちが、法然上人(ほうねんしょうにん)を大原へ招いて、激しい討論を行ったのでした。「討論」といえば聞こえはいいのですが、実際は、大勢で法然上人を打ち負かそうとしたのです。
なぜ、そんな暴挙に出たのか。背景を説明しましょう。
「仏教」は、今から約2600年前に、インドで活躍された釈迦が説かれた教えです。
釈迦の教えは、経典に書き残されました。『法華経』『阿弥陀経』『大無量寿経』など、その数はとても多く、全部で7千巻以上もあるのです。
経典は、インドから中国へ運ばれて翻訳。さらに日本へもたらされました。多くの人の努力があったからこそ、今、私たちは仏教を聞くことができるのです。

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仏教といっても、今日、いくつもの宗派があります。しかし、大きく分けると、「聖道仏教(しょうどうぶっきょう)」と「浄土仏教(じょうどぶっきょう)」の2つになります。
「聖道仏教」は、「自力の仏教」ともいわれ、自分の力で難行苦行に励み、この世でさとりを開こうとする教えです。天台宗、真言宗、禅宗(ぜんしゅう)などです。
「浄土仏教」は、「他力の仏教」ともいわれ、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願による救いを説きます。この世で、阿弥陀仏に救われた人は、死ねば極楽へ往って仏に生まれられると教えます。

大発展する、浄土仏教

法然上人は13歳で、天台宗の比叡山へ登られました。聖道仏教の勉学と修行に、その後30年間も打ち込まれたのです。しかし、真剣に修行すればするほど、見えてくるのは、体では立派な行為ができても、心の中には欲や怒り、愚痴の煩悩が燃えている姿でした。
このままでは、死後の行き先は真っ暗だと驚かれた法然上人は、どこかに救いの道はないかと、すべての経典を何度も読み続けられました。そして、ついに、阿弥陀仏の本願に救われられたのです。

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「このような悪ばかり造っている法然でも、このような愚痴の法然でも、阿弥陀仏は救ってくだされた」
法然上人は、直ちに比叡山を下りて、京都の吉水(よしみず)で、すべての人が平等に救われる阿弥陀仏の本願を説き始められました。吉水には、一般大衆だけでなく、武士や貴族も集うようになり、浄土仏教は大発展するのです。
聖道仏教の各宗派は、
「このままでは、日本中の人が、念仏を称えるようになる」
と危機感を抱くようになりました。
仏教の争いには武力を用いません。あくまで、釈迦の経典を土俵として、どちらが正しいかを討論し、勝敗を決します。このような討論を、仏教では「法論」といいます。
天台宗、真言宗などの学者が団結して、法然上人を法論で破り、浄土仏教の勢いを止めようと計画したのです。
まず、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の高僧・顕真が、法然上人のもとへ、「大原の勝林院(しょうりんいん)へお越しください。浄土仏教についてお尋ねしたいことがあります」と招待状を送ってきました。
法然上人は快諾されます。
上人の弟子たちは警戒しました。何か魂胆があるに違いないと感じていたのです。
しかし法然上人は、何の躊躇もされず、「すべての人が平等に救われる教えを明らかにする絶好の機会だ」と微笑され、大原へ向かわれました。

なぜ、熊谷蓮生房は、刃物を隠し持っていたのか

私たちも、法論の舞台となった勝林院へ向かいましょう。
京都市内から高野川(たかのがわ)に沿うように国道367号線を北上します。高い山と山の間を抜けるように進んでいくと、やがて大原の里。田畑が広がり、黄色い菜の花が咲いていました。

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大原といえば、しば漬けが有名です。道路沿いの漬物店で、勝林院への行き方を尋ねました。
「勝林院は、三千院(さんぜんいん)の近くですよ。国道の東側の道を山へ向かって上ってください」
車が、やっと1台通れるくらいの道が、山の中腹へ続いています。行き止まりの所で、車を有料駐車場へ入れると、目の前が三千院でした。
三千院は広大な寺院です。正面には、城のような高い石垣が長く続いています。

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その石垣が切れる辺りに「熊谷鉈捨藪(くまがいなたすてやぶ)」と刻まれた小さな石碑を発見!

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すぐ横に立て札があり、次のように書かれています。
「勝林院での法然上人の大原問答の折に、その弟子の熊谷直実(くまがいなおざね)は、『師の法然上人が論議に敗れたならば法敵を討たん』との思いで袖に鉈を隠し持っておりました。しかし、上人に諭されて、その鉈をこの藪に投げ捨てたといわれています」

源氏の武将が念仏を

熊谷直実といえば、元は源氏方の武将でした。侍大将として、平家と戦った豪傑です。
しかし、一谷(いちのたに)の合戦(現在の兵庫県での戦い)で、17歳の平敦盛(たいらのあつもり)を討ったことをきっかけに、自分の生き方に、大きな疑問がわいてきたのです。
「ああ、いくら戦争とはいえ、わが子と同じ年頃の武者を殺してしまった。俺は今まで、戦場で、どれだけの人を殺してきただろうか。恐ろしい罪を造ってしまった。こんな罪深い者は、死んだらどこへ行くのだろうか……」
居ても立ってもおれなくなった熊谷直実は、京都の法然上人のもとへ走り、仏教を聞き求めるようになりました。そして、阿弥陀仏の本願に救われて、生まれ変わったのです。
彼は、法然上人の弟子・蓮生房(れんしょうぼう)となり、かつて、戦場で「我こそは日本一の剛の者・熊谷直実なり!」と叫んだ口からは、「南無阿弥陀仏」と念仏の声が絶えることはありませんでした。

大原の勝林院には、聖道仏教の各宗派の学者や僧侶が380人以上も待ち構え、殺気だっていたと伝えられています。
熊谷直実は、いざという時には、命懸けで師匠を守る覚悟で、鉈を隠し持って、法然上人についてきたのです。
しかし、法然上人から心構えの誤りを叱られて、素直にこの藪へ、鉈を捨てたのでした。
大原問答は、それだけ緊迫した雰囲気の中で始まったことを示すエピソードです。
「熊谷鉈捨藪」の位置に立つと、坂を下りた突き当たりに、寺の大屋根が見えます。あと100メートルくらいで勝林院です。

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山門をくぐると、境内は、緑の苔に覆われていました。真ん中に石畳の参道があります。大原ならではの、独特な雰囲気です。

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本堂正面の大柱には「大原問答」と、白い文字で大書されていました。800年たった今も、この寺の歴史を代表する出来事として語り継がれているのです。

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しかし残念なことに、建物の老朽化が進んでいました。屋根は傷んで穴があいているらしく、本堂正面の回廊や階段にはブルーシートが敷いてあり、雨漏りを受けるバケツが並んでいます。大改修へ向けて寄付を呼びかけるチラシが置いてありました。
本堂に入ると、本尊の両側に「問答台」と書かれた高座が置かれていました。左右対称になっています。
質問者と回答者が、向かい合った形で高座に座り、討論したのです。
しかも、答えるのは、法然上人一人。質問する側は、各宗派を代表する学者と僧侶の連合軍。
数の上では、法然上人が圧倒的に不利な中で、2日間にわたって討論が続きました。
その内容は専門的なので、ここには書けませんが、ポイントは、
「浄土仏教と聖道仏教、いずれが優れているか」
という争いです。
法然上人は、次々に投げられる質問に明快に答え、すべて論破されました。
感服した聖道仏教の学者と僧侶たちは、法然上人を、「智恵第一の法然房」「勢至菩薩(せいしぼさつ・智恵を象徴する菩薩)の化身」と称賛しました。
念仏の尊さを知らされた人々は、皆、「南無阿弥陀仏」と称え、その声は、3日間、大原の山野にこだましたのです。

大原問答は、誰のために

法然上人は、次のように言われました。
「聖道仏教は、いずれも高遠な教えです。そのとおり修行すれば、さとりを得ることができましょう。しかし、私のように愚鈍な者は、聖道仏教の器ではありません。阿弥陀仏の本願でなければ、救われなかったのです」
法然上人でさえ、聖道仏教では救われなかったと告白しておられます。
はたして、今日の私たちは、山に入って修行に打ち込んだり、経典を学んだりすることができるでしょうか。
そんなことは、とてもできない私たちのために、法然上人は、男も女も、知者も愚者も、すべての人が平等に救われる浄土仏教を明らかにしてくださいました。
だからこそ親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、『歎異抄(たんにしょう)』で、次のように教えておられるのです。

(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もってそらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。
(『歎異抄』後序)

(意訳)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。ただ弥陀(みだ)より賜った念仏のみが、まことである。

法然上人は、すべての人が救われる阿弥陀仏の本願の尊さを明らかにされました。念仏の声が、大原の山野にこだまし続けたと伝えられています。

歎異抄の旅⑨[京都編] 癒やしの里・大原〜「大原問答」の舞台への画像11
(イラスト 黒澤葵)


『歎異抄』に流れている、すべての人は平等というメッセージに、癒やしを感じる旅でした。次回もお楽しみに。(古典 編集チーム)

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