日本人なら知っておきたい 意訳で楽しむ古典シリーズ #36

  1. 人生

歎異抄の旅⑥[比叡山編]『歎異抄』ゆかりの地を歩む〜眼下に広がる琵琶湖に慰められる、人のこころ

古典『歎異抄』の旅へ

都道府県をまたぐ移動が、ようやく解禁になりましたが、「旅行に行くのは、ちょっと不安かも……」という方も多いかもしれません。
古典の名著『歎異抄(たんにしょう)』ゆかりの地を旅する連載で、ひとときでも、旅行気分を味わっていただけたら、うれしいです。
それでは、比叡山へ向かいましょう!

(前回までの記事はこちら)

(古典 編集チーム)


「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』ゆかりの地を旅します
(「月刊なぜ生きる」4月号に掲載した内容です)

眼下に広がる琵琶湖は、比叡山の魅力

比叡山(ひえいざん)は親鸞聖人(しんらんしょうにん)が、9歳から20年間も、「生死(しょうじ)の一大事」の解決を目指し、青春時代を過ごされた山です。
今回は、滋賀県大津市側から、車で登ることにしましょう。
田の谷峠のゲートから比叡山ドライブウェイへ入ります。山頂へ向かう道は、急なカーブの連続。道路脇の木々の間から琵琶湖(びわこ)が見えてくると、思わず、「オオッ!」と声が出てしまいます。湖には、なぜか心を引きつける力があります。
わき見運転を戒め、中腹の休憩所「夢見が丘」に車を止め、ゆっくり景色を眺めました。

眼下に広がる琵琶湖を見ていると、すがすがしい気持ちになります。
静かな山から、日本一の広さの湖を見下ろすことができる……。これが比叡山の大きな魅力だと思います。この景色が、厳しい修行に打ち込む人々の心を、どれだけ慰めてきたかしれません。
「あのように、広く、静かな心になりたい」と願い、心を奮起させることが多かったのではないでしょうか。
それだけ、琵琶湖の存在は大きいと感じました。

比叡山名物「ロン」「シツ」「カン」「ピン」

比叡山には、100以上の寺が16の谷に散在しています。
それらは大きく3つのエリアに分けて、東塔(とうどう)地域、西塔(さいとう)地域、横川(よかわ)地域と呼ばれています。
これを「三塔十六谷」ともいいます。

比叡山ドライブウェイを山頂付近まで登ると、道路はそのまま広い駐車場を備えた延暦寺(えんりゃくじ)バスセンターへ入っていきます。

前回、ケーブルカー、ロープウェイ、バスを乗り継いで到着した場所と同じです。
ここが、比叡山の3つのエリアを巡る起点であり、中心でもあるのです。
無料休憩所には、広い食堂があります。「比叡山そば」を注文しました。(美味しい、そばでした)

この延暦寺バスセンターは、東塔地域の入り口にあたります。
入場券を買う時に、法衣を着た男性から、面白い話を聞きました。
「昔から、比叡山といえば『ロン』『シツ』『カン』『ピン』が名物です」
「『ロン』とは?」
「議論の『ロン』。大いに議論して仏教を学ぶ場所なのです」
「『シツ』とは?」
「湿度の『シツ』です。この山は、1年を通して、よく霧に覆われます。じめじめとして湿度が高い所なのです」
『カン』とは、寒さのことですね」
「そうです。例年、冬は雪が積もって真っ白になります。花瓶の水が凍るほど冷え込みます」
「最後の『ピン』とは?」
「清貧の『ヒン』です。金や物が欲しいという欲を捨てて、質素な生活に心懸ける仏道修行の場所なのです」

比叡山の風土を表す言葉が「論湿寒貧」だったのです。
親鸞聖人も、このような厳しい環境の中で、ひたすら「生死の一大事」の解決を目指して、修行に励まれたのでした。

『道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし』〜伝教大師

法衣姿の男性は、とても親切で、さらに詳しく説明してくれます。
「比叡山延暦寺を創建した伝教大師は、『道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし』と教えておられますよ」
「『道心』とは?」
「目的を見失わず、仏教を求めていく心です。求道心です」
「では、『道心の中に衣食あり』とは?」
「真面目に仏教を求めていけば、決して、衣食住に困ることはないと教えられた言葉です」
「次の、『衣食の中に道心なし』とは?」
「ちゃんと生活していけるだろうかと、衣食住を気にして、金や物に心を奪われている者は、仏道修行の目的を見失っているぞ、と戒められた言葉です」

伝教大師は、比叡山といっても、人間が集まる場所である以上は、「生死の一大事」の解決に向かって修行に励む者だけでなく、必ず、目的を忘れて仏法精神から逸脱する者が現れることを見抜いていたに違いありません。

比叡山の参道にズラリと並ぶ絵看板

入場券を買って参道を進むと、比叡山から輩出した高僧、名僧の行績をたたえる絵看板が並んでいました。

こう書かれています。
「鎌倉時代には浄土宗の法然上人、浄土真宗の親鸞聖人、臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師……などの各宗のお祖師さまたちが比叡山で修学され、それぞれの宗派をお開きになりました。現在にいたりこの山は『日本仏教の母山』として教宗派を問わず多くの人々から崇められ、平成六年十二月に世界文化遺産として登録されました。(後略) 比叡山延暦寺」

法然上人、親鸞聖人のお名前が、トップに記されています。現在の比叡山延暦寺は、日本に浄土仏教が広く伝わったことを高く評価しているように思います。

吉川英治の『新・平家物語』に描かれた、大講堂の鐘

高僧の絵看板を過ぎて、最初に目にする建物が大講堂です。
広い庭があります。
奥には、朱塗りの鐘楼。大きな鐘がつるされています。

この鐘は、どんな役割を果たしてきたのか……。吉川英治の『新・平家物語』には、次のように書かれています。

三塔十六谷に住む叡山(えいざん)の法師たちは、まだ勤行(ごんぎょう)にもつかない、未明の夢を、ふいに、醒(さ)まされた。
「大講堂の鐘が鳴るぞうっ。……大講堂にあつまれいっ……」
たれかは知れぬが、どこかで、雲を呼ぶように、どなっている。
──ごうん、ごウうん、ごうウウん……。
鳴りやまない鐘の音を耳にしながら、法師たちは、下に、鎧(よろい)を着こみ、上に法衣をまとい、太刀(たち)を帯び、薙刀(なぎなた)をもち
──老師の場合は、竹の入堂杖(にゅうどうじょう)をつき
──われ先にと、谷々から、雲のわくように、登ってゆく。
六月のなかば過ぎ。短夜(みじかよ)の空も、まだ暗く、星が、まばらである。
法師たちは、道々、あちこちの、堂舎や院の屋根を見るごとに、唇(くちびる)へ、手をかざして、
「大講堂に立ちまわられよ。鐘が鳴ったぞ。──満山の大衆(だいしゅ)に、寄れと、告げているぞうっ」
と、呼ばわり、呼ばわり、行くのだった。
(『新・平家物語』より)

比叡山全体で議論すべき問題が発生すると、大講堂の鐘が打ち鳴らされたのです。
東塔、西塔、横川から、僧侶(法師)が皆、集まってきます。
しかも、修行や学問に真面目に励む僧侶ばかりではありません。法衣の下に鎧を着て、太刀や薙刀を持って駆けてくる「僧兵」と呼ばれる輩が多かったのです。

大講堂で議論し、天皇へ直訴することに一決するや、武装した僧兵が徒党を組んで下山。日吉大社の神輿を担いで御所へ押し掛けたのです。

これを「強訴(ごうそ)」といいました。
『新・平家物語』に描かれている、この時の招集は、
「平清盛父子を流刑にせよ」
と訴えるためでした。
強訴は、比叡山の名誉が傷つけられたとか、財産の取り扱いや人事に不満がある時に、たびたび行われたのです。
このような行為が、伝教大師が教える仏道修行者の姿に、かなっているのでしょうか……。

今も、大講堂の前に、
「比叡山 ぶらり文学散歩」
という看板があり、
「国を揺り動かした、僧兵たちの誇りが息づく」
と題して、吉川英治の『新・平家物語』が引用されています。

平家が繁栄し、やがて急速に滅亡に向かったのは、親鸞聖人が、比叡山で修行しておられた時期です。
政治や社会が混乱していただけでなく、比叡山の僧侶の姿も、相当に乱れていたことを表しています。

比叡山と『土佐日記』の紀貫之

親鸞聖人の旧跡・大乗院の近くの山の中腹に、紀貫之(きのつらゆき)の墓があることが分かりました。
紀貫之は、平安時代の有名な歌人です。『古今和歌集』の選者の一人であり、『小倉百人一首』にも、次のような歌が収められています。

人はいさ
心も知らず
ふるさとは 花ぞ昔の 香(か)に匂(にお)いける

(意訳)
人の心は変わりやすいですからね。
あなたは昔のまま、私のことを思ってくださっていますか。懐かしいこの地の花は、昔のままの香りで美しく咲いているではありませんか。

紀貫之は、土佐国(現在の高知県)の国司に任命されています。任期を終えて、都へ帰る道中のエピソードを、日記風に書いた随筆が有名な『土佐日記』です。

では、日本の文学の発展に大きな影響を与えた紀貫之が、なぜ、比叡山に墓を作ったのでしょうか。
彼は、比叡山から眺める琵琶湖の風景を、こよなく愛していました。自分が亡くなったら、見晴らしのいい所に葬ってほしいと言っていたそうです。
今でも墓が残っています。訪ねてみることにしました。

「景色のいい所に墓を作りたい」願いをかなえた紀貫之

大講堂の鐘楼の辺りから、無動寺谷へ向かう坂道を下りていきます。
10分ほど歩くと、坂本ケーブルの延暦寺駅が見えてきました。
駅舎の前には展望台があり、眼下には、美しい琵琶湖が広がっています。
「絶景スポット」といってもいいでしょう。紀貫之が愛した景色です。
延暦寺駅でケーブルカーに乗って、次の「もたて山駅」で降ります。

ホームには、
「土佐日記作者
土佐の国司 紀貫之の墳墓所在地」
と記した看板が立っていました。

起伏のある細い山道を500メートルほど歩きます。
「本当に、この道でいいのだろうか」と不安になるほど、静かで、寂しい道でした。

やがて、少し開けた所に出たと思うと、
「木工頭紀貫之朝臣之墳」
と刻まれた小さな石柱が立っていました。「木工頭(もくのかみ)」とは、紀貫之の晩年の職名を表しています。

墓の周りには高知県南国市から墓参りに訪れた一行の記念碑が、いくつもありました。紀貫之は、土佐国の国司を務めたことがあるので、千年以上たった今でも、多くの人から慕われているのでしょう。

紀貫之は、
「人間、死んだら墓の中に入るのだろう。それなら、景色のいい場所に墓を作りたい」
と考えたのだと思います。
もし仮に、死んだら墓の中へ入るとするならば、夏は蒸し暑く、冬は凍てつくほど寒い山の中で、じっとしていることになります。それは、かなりつらいのではないでしょうか。
紀貫之のような優秀な人でも、「死んだら、どうなるのか」と、いくら考えても分からなかったのです。せめて、景色のいい所に墓でも作らないと、死への不安を、どうすることもできなかったのでしょう。

本当に、盛大な葬式をして、いい所に墓を作れば、「死んだら、どうなるのか」の大問題が解決できるのでしょうか。

親鸞聖人は、到底、そんなことで「生死の一大事」の解決など、できるはずがないと知らされ、比叡山で20年間も厳しい修行に打ち込んでいかれるのです。
そのご苦労の足跡は、東塔地域だけではなく、横川、西塔地域にも残されています。次回は、横川地域を訪ねることにします。


琵琶湖を眺めながら、来し方行く末を思う……。誰もが持っている大問題に、親鸞聖人は打ち込まれたのですね。次回もお楽しみに。(古典 編集チーム)

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