1万年堂出版が開催した
読者感想文コンクールの
入賞作品の一部をご紹介します。

金賞

『光に向かって100の花束』を読んで

王申冉さん(高校3年生・東京都) 高校生の部

小学校6年生の時に『光に向かって100の花束』を読んで感想文を書くようになって以来、毎年この時期になると、どの本を題材にしようかと迷ってしまう。

新しく出版された魅力的な本もたくさんあるが、今年の私をつかんで離さないのが、また『光に向かって100の花束』なのである。小学校6年生から高校3 年生へ。小学校から中学校、高校から大学と、新しい環境へ旅立つ期待感と不安感がせめぎあうという点では共通する年齢。しかし同じ本でも読み方はまったく 変わってくる。

私がこの6年間で成長したといえるとしたら、1つには、広い視野でものを見ることができるようになったことだ。

小学校6年生の私は、深い悩みを抱えて誰にも言えずに苦しんでいたが、今の私から思えば打開策はいろいろある。だがそれは、今の私なら何でもうまく解決 できるということではない。自分は受験生だ、敏感な時期にあるんだとふてくされたような態度を棚に上げて家族と衝突した時、怒りは結局、負にしか働かな い。人との交流の中のちょっとした言葉を聞き流せずにぎくしゃくしてしまう。なまじ私がくよくよと考える性格だから、余計にややこしくなって、自分がご ちゃごちゃと引きずっていることを相手が忘れてしまっていることにさらに腹が立つ。

そんな時には数を数えよと『花束』には書いてある。焼け野原でひとり泣きたくなければ、無用に感情をむき出しにしないよう努めなければならない。6年前に習得したはずの落ち着くすべを私は実践できずにいたのだ。

もう1つ成長した点、それは競争とは何なのかを知ったことである。

6年前の感想文の中でも自分の負けず嫌いについて書いてあり、同級生とよき「ライバル」でいたいと語る私がいる。しかし高校受験を幸運にも成功させることができ、これから大学受験という更なる高い壁を登ろうとする私は競争が人と比べた勝ち負けではないことを知っている。

高校に入ってさまざまな分野で優秀な同級生を見て、負けず嫌いの私はあらゆる面でライバルを自然に探しては、「かなわない」と嘆いていた。

しかしある日、気づいたのである。完璧な人など誰一人いない。有限の学校生活、ひいては人生の中ですべてを磨き上げるのは不可能である。いくつものこと に手を出して何一つ成就しない者を風刺する古典作品も多い。ならば自分がこれと決めて努力しているものは自分より優れた人を目標にすえ、そうでないものは 素直に相手に賛辞を贈るべきなのではないか。

また、1つ目標が定まったなら、先達や同志のノウハウをあまさず取り入れて、ひたすらに努力するだけである。ライバルが敵である、蹴落とす相手であると いう考えを持っていた私は、最近になってやっと学年全体で受験に挑むという言葉の意味がわかった。互いの優れた部分を学びあい刺激しあい、結果として順位 がつき、互いの健闘をたたえあう。それがライバルなのだ。6年前の私は知らなかったことである。

そうして努力を始める時には、忙しくとも時間がないと言い訳をせず、何からでも学び、基礎を大事にしていくことを『花束』は教えてくれていた。

『光に向かって100の花束』には生きていくうえで当たり前にやるべきこと、当たり前にやっていきたいことが書いてある。「当たり前」は「簡単」と同義で使われてしまいがちだが、そんなことはない。

東大受験を描いた『ドラゴン桜』でも、当たり前のことを当たり前にできるだけで相当な力がつくと書いてあったし、学校の先生は難問ではなく基礎を当たり前にできることを訴える。

当たり前のことを当たり前にやるのが一番難しい。受験勉強をしていると、それがよくわかる。勉強の計画を立ててあとはやるだけ。しかし計画通りにさまざ まな娯楽の誘惑に負けないようにそれをこなすのは大変なことである。勉強の中身でも、当たり前のように習う公式さえ使うことができれば解ける問題は多くあ る。さらには試験当日、時間通りに会場に着き、解答用紙に名前を書き、という作業も当たり前であるが、緊張状態にある人間にとっては難しいことばかりだ。

そんな時のために『花束』は存在するのではないだろうか。相手がわかってくれないと嘆くのではなく、自分から行動を起こすこと。どんなできごとであって も考え方一つで結果は大きく変わってくること。他人の目を気にすることなく、他人の評価を得ようとするのではなく、自分の信じたことを貫き通すこと。

多くの当たり前がやさしい説話形式で載っている『花束』を私はこれからはもっと身近においておきたい。過去は変えられないが、現在、未来を光に満ち溢れたものにするために。