前回は中動態という概念を紹介しました。
「頑張ろうとしたけど、頑張れなかった」
「断りたかったけど、引き受けざるを得なかった」
そんな心の動きを、私たちはつい「意志の弱さ」や「情けなさ」として自分を責めてしまいがちです。
けれど、人の心はそんなに単純ではありません。
何かを「しよう」としたわけでも「させられた」わけでもない。
ただ、自分の中でそう“なっていた”――
この中動態の視点が、自分に起きたことをやわらかく受け止め直す手助けになります。
今回は、そこからもう一歩進んで、「外在化」という考え方を紹介したいと思います。
これは、心の中の苦しみや葛藤を「自分そのもの」とせず、それは“自分の中にあるひとつの出来事”として眺め直してみるための方法です。
「私が悪い」を“私”から少し離す
たとえば、何かうまくいかないことがあったとき、
「やっぱり自分はダメだ」
「もっと頑張れたんじゃないのか」
「自分は何をやってもうまくいかない」
そんなふうに、自分自身を責める言葉が心の中を占めてしまうことはないでしょうか?

この「自責」の感覚は、多くの場合、「これ以上わたしを責めないで」という自分を守るための予防線ですが、自分で自分を責めてしまうこと自体、とてもつらい状態です。
そして、これは「そんな風に思いたくないのに、そういう考えが出てきてしまう、無くなってくれない」という、自分でもどうしようもないところも、しんどいわけです。
そんなときに試してみたいのが、「それ(苦しみ)を、“私”と分けて」みて、ちょっと距離をとって語ってみることです。
自分の気持ちに“名前”を与える
心理療法の中でも、「ナラティヴ・セラピー」と呼ばれる方法では、この外在化という手法がよく使われます。
たとえば、「私はダメだ」と思っていた人が、「“ダメだ”と責めてくる声が自分の中にでてくる」と捉え直すだけで、少しだけ自分の中に余白が生まれます。
「ダメだ」と自分を責めているのは、自分でそうしたいわけではない(自分の意志ではないのに)のに、そういう気持ちが「出てきてしまう」わけですよね。
自分の心であっても、なかなか心は思い通りになりません。
であれば、そんな思うようにならない思いは、自分の中の「キャラ」としてイメージしてみるのです。
「ダメだ」と責めてくるなら、ダメダメちゃん。
「イライラする」なら、イライラマン。
何でも過度に不安になるなら、不安さん。

これを意識すると、
「ダメだー」と自分を責める気持ちが出てきたら「ダメダメちゃんがでてきてる」
イライラして仕方ないときは、「イライラマン、むかつくくらい元気だわ」
不安になってしまうときは、「不安さんがまたいらっしゃった…」
こう言い換えることで、それは「私そのもの」ではなく、「私の中にある“ひとつの声”」として見えてきます。
これらは、摂食障害(拒食/過食)や強迫症など、やや病的な症状にも応用できます。
(食べなくちゃと思っても、食べるのが)コワイちゃん/カショクちゃん
(何度も確認せずにおれなくさせる)カクニンさん など。

この時のポイントは、外在化したキャラを「悪者」にしないことです。
これらは「あってはならない、抹消すべき気持ち」ではなく、何かのサインかもしれないからです。
そして、これらと距離を置く工夫として、丁寧語や敬語をあえて使うのも一つです。
このように外在化することで、私たちは、自分を責めるのではなく、その声と“対話”できるようになるのです。
中動態的に語り、外在化して聴く
外在化は中動態の視点と、とてもよく似ています。
中動態は、「何かが起きている」「自分の中にでてくる」「巻き込まれている」というように、自分を裁くのではなく、出来事をそのまま描写する言葉遣いです。
そこにさらに「外在化」の視点が加わると、自分の中で起きていたことを、より客観的に、距離をとって、対話的に見つめ直せるようになります。
たとえば、「イライラして、暴れてしまった」という出来事を、
「私は我慢できなくて、キレてしまった」ではなく、
「イライラする気持ちが自分でも抑えられなくて、暴れたいわけじゃなかったのに暴れてしまった」と語り直すことができたらどうでしょうか。

ナラティヴ・セラピーにおける格言に「人が問題なのではなく、問題が問題なのだ」とあります。
つまり、問題のある人がいるのではなく、問題に巻き込まれている人がいるだけです。
言い換えれば「困った人は、困っている人」。
「問題行動を起こす困った人」に見える場合も、「問題を抱えて困っている人」ともいえるわけです。
そこには多くの場合、葛藤があります。問題になんとか対処しようと頑張ってみたけれども、どうにもならない。
「怒りたいわけじゃないけど怒りを抑えられない」という目に見える行動の背景には、「本当はそうしたくないのに……」という本人なりの努力もあるはずなのです。
外在化して、問題と人を分けることで、この葛藤も丁寧に語りやすくなります。
そうして、自分なりの頑張りにも焦点を当てること自体が、自分を大切にすることにつながり、自責感が軽減されやすくなります。
この視点は、自分自身に向けるだけでなく、誰かの行動に困ったときにも役に立ちます。
外在化は「開き直り」ではない
このような外在化の視点は、やる気が出ないことやイライラを、第6・7回で紹介した、神経生理学的な反応(ポリヴェーガル理論)として観ることとも親和性があります。
つまり、サバイバルモードのスイッチが入っているから、闘争反応のように、イライラしたり、周りの人が敵に見えてしまったり、頑張りすぎてしまう。
あるいは、凍りつき反応・シャットダウンのために、やる気が出ないし、人の目が怖いし、自分が何をしたいのかもわからない。
これらは、自分の意志ではなく、自律神経系の反応として起きることなので、まさに自分の身体・心だけど、自分ではどうにもならない反応です。
考え方が極端(白黒思考)だったり、ネガティブになりやすいとしても、それも過去に傷ついた経験がありトラウマが残っているのかもしれません。
これらは「自分の意志とは別に起きている反応」です。
精神科医の斎藤環先生は、外在化の意義を「責任を感じすぎないことで、結果的にちゃんと責任を引き受けられるようになる」と言われています。
「当事者の責任を問わない外在化は、自己評価を傷つけず孤立もさせないので、安心して問題解決に取り組むことができるという利点がある。その結果、当事者は解決のための行動を起こしやすくなり、結果的により多くの責任が取れるようになるであろう。外在化、すなわち「意志と責任の外部に問題行動を位置づけること」によって、当事者の主体はまさに中動態的に「解決行動の内部」に位置づけられるという逆説がそこにある」
(斎藤環、「中動態的外在化」について、臨床精神病理、2019)
これは逆に言うと、私たちはいきなり責任を問われると、傷つき、孤立してしまい、問題解決に取り組めなくなってしまうということです。
外在化は、「自分は悪くない」と開き直るためではなく、ちゃんと自分の気持ちや行動と向き合うための方法です。

おわりに
自分を責める気持ち自体は、本来は悪いものではありません。
何かあったときに、ちゃんと反省して、次に活かすためには、責任をちゃんと感じることも必要です。
反省が必要になる「何かあったとき」には、「やってしまった自分」と、「それによって傷ついた自分」がいるはずです。
交通事故を起こしてしまったときも、事故を起こしてしまった自分と、事故によって傷ついた自分がいます。
そんなときは、まずはケガの手当てをして、落ち着いてから事故の振り返りをしますよね。「事故の加害者は、手当てしてもらう価値はない」とはなりません。
むしろ、ちゃんと事故と向き合うためには、治療を受ける必要があります。
それと同じように、自分を責める気持ちが強くなるような状況でこそ、まずは自分のケアが大切なのです。
例えば、イライラして仕方ないのに、「イライラが抑えられない自分は情けない」と自分を責めてしまう。
何か「しんどさ」があってイライラしていたのに、更に自分を責めるしんどさまで加わり、いわば「二重にしんどくなっている」状態ですよね。
元々のしんどさは(すぐには)変わらないとしても、自分を責めるしんどさが減るだけでも、だいぶ違うと思います。
そして、外在化してみると「こんな状況なら、そりゃあイライラもするよね、けっこう頑張ってるよね」と自分をねぎらう気持ちも出てくるかもしれません。
ちゃんと反省する力は、ちゃんと自分をねぎらうケアとセットであり、それが「ちゃんと凹む」ことだと思っています。