日本人なら知っておきたい 意訳で楽しむ古典シリーズ #153

  1. 人生

歎異抄の旅㊷[鎌倉編]鎌倉殿と『歎異抄』〜日本史上初のアイドル・義経

古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第42回「夢のゆくえ」は、源実朝(みなもとのさねとも)が中国(宋)へ渡る計画を立て、巨大な船を造る場面が描かれました。ちょうど先月の「歎異抄の旅」で配信したところがドラマに描かれていて、感動しました。やっぱり実朝はかわいそうでしたね。

さて、今回の『歎異抄』の理解を深める旅は、「実朝歌碑」最寄りの「長谷(はせ)」の先で、「江ノ島」の一つ手前の駅「腰越(こしごえ)」まで行きましょう。腰越には、源義経(みなもとのよしつね)の旧跡があるのだとか。

木村耕一さん、よろしくお願いします。

(古典 編集チーム)

(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅㊷[鎌倉編]鎌倉殿と『歎異抄』〜日本史上初のアイドル・義経の画像1

「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします

(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)

日本史上初のアイドル・義経

鎌倉駅から、江ノ電(えのでん)に乗ります。

──昔ながらの懐かしい電車ですね。

はい、素朴な造りの駅舎が多いのも魅力です。

やがて、電車の窓から相模湾(さがみわん)が見えてきます。目の前に広がる海を眺めていると、ヨットやウインドサーフィンを楽しむ人たちが通り過ぎていきました。

──自然と、「旅に来た」という実感がわいてくるエリアですね。

前回は、江ノ電の「長谷」で降りましたが、今回は、「江ノ島」の一つ手前の駅「腰越」まで行きましょう。

──「腰越」ですか。

腰越には、源義経の旧跡があります。
しかも、義経の人生を、山の頂上から谷底へ突き落とすターニングポイントとなった場所でもあるのです。

「義経」というと、何を思い出しますか。

──えっと、牛若丸、弁慶、「勧進帳」……。NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、義経を、菅田将暉さんが演じていましたね。

そうですね。
義経は日本史上初のアイドルだ、と言ったのは、小説家・井沢元彦氏です。
『英傑の日本史』に、次のように書いています。

源義経が生きた平安時代末期から鎌倉時代初期というのは、まさに日本史上有数の大変革期であった。(中略)そうした大変革期には、時代の流れを急速に変える人間が必ず出現する。人はこれを「英雄」と呼ぶ。(中略)それが義経であり、鎌倉幕府の創設者でもある、兄の頼朝(よりとも)なのである。しかし、義経は単に英雄であるだけではない。日本史上初めてと言っていい「アイドル」でもあった。

敵にも味方にも愛され、日本中で人気者になった義経に、腰越で、一体、何が起きたのでしょうか。

義経の「腰越状」

頼朝と義経の父・源義朝(みなもとのよしとも)は、戦いに敗れて平家に殺されました。
兄の頼朝は伊豆(静岡県東部)へ流刑。
弟の義経は平泉(岩手県南西部)へ逃れていました。
生きている場所は離れていても、2人の共通の願いは、父の敵(かたき)を討ち、源氏の世をつくることでした。
ついに頼朝が、平家を打倒する兵を挙げたと伝え聞いた義経は、兄に合流しようと、平泉から駆けつけてきます。

──「鎌倉殿の13人」にも描かれていました。駆けつけてきた義経が、頼朝を見つけると、「兄上ー!」と涙を流して近づいてきます。しかし頼朝や、そばにいた北条義時(ほうじょうよしとき)は不審顔。義時が「何かご兄弟のしるしのようなものは……?」と聞くと、「顔! 顔! 顔そっくり!」と義経が言うシーンは、印象的でした。

そうですね、このドラマのシーンは話題になっていましたね。
『義経記(ぎけいき)』には、黄瀬川宿(きせがわのしゅく。現在の静岡県沼津市の辺り)で再会を果たした兄弟の様子が詳しく書かれています。要約してみましょう。

頼朝が富士川の戦いで平家の軍勢を打ち破り、勝利の美酒に酔いしれているところへ、わずかな供をつれた義経が到着しました。
驚いた頼朝は、こう言って、温かく迎えます。
「よくぞ、兄がいることを忘れずに、馳せ参じてくれた。言葉に表せないほど、うれしく思う。
私が決起すると、関東の武者が多く集まってくれた。しかし、いずれも他人だから、親身になって話し合える相手はいない。しかも、つい先頃まで平家に従っていた人々ばかりなので、旗色が悪くなると、いつ私を裏切るか分からない。そう思うと、夜も安心して眠れなかったのだ。今日からは、そなたと魚と水のように親しみ合い、力を合わせて平家を討ち果たそうぞ」
頼朝は、言い終わらないうちに、はらはらと涙を流します。
義経も、
「私の命は兄上にささげます。この上は、決して兄上の命令に背くことはいたしません」
と、涙にむせびながら誓うのでした。

──再会の喜びが伝わってきます。

義経は、兄・頼朝の命令に従って、平家を攻めてゆきます。
一谷(いちのたに)の合戦屋島(やしま)の合戦と、義経は天才的な戦法で平家に勝利します。
最後は、壇ノ浦(だんのうら)に追い詰めて平家の船団を全滅させ、敵の総大将を生け捕りにしたのでした。

強大な権力を誇っていた平家が、あっという間に滅んでしまうとは、誰も思っていませんでした。義経が都に凱旋すると、この若き英雄に、拍手喝采がわき起こり、まるで「アイドル」のようにもてはやされたのです。

義経は戦勝報告に、鎌倉へ向かいました。「兄に褒めてもらいたい」「手を取り合って喜びたい」という一途な気持ちで街道を進んでいきます。

──義経は、また「兄上ー!」と頼朝と手を取り合って、ともに喜びたかっただろうと思います。

ところが、兄・頼朝から、突然、「鎌倉に入ってはならない」と命令が届いたのです。門前払いです。頼朝は、義経に謀反の疑いがあると思ったのでした。

義経は愕然とします。これまで、自分は、何のために戦ってきたのか……。

腰越(鎌倉の西の端)に留まった義経は、兄へ、詫び状、誓約書を何度も送りますが、頼朝は全く相手にしてくれません。これが最後と、義経が泣く泣く書いた書状が、有名な「腰越状」です。

頼朝は、それでも許しませんでした。
それどころか、都へ引き返した義経を殺そうと刺客を派遣しています。

勝利に酔っていた義経の人生は、腰越で、悲劇の武将へと転じてしまうのです。
黄瀬川宿で、頼朝と涙の対面をしてから、わずか4年後の決裂でした。

──なんとも悲しい誤解です。

どれだけ悔しい思いをしたでしょうか。義経は、弁慶に守られて、奥州を目指して逃げていくのでした。

『平家物語』には、

「諸行無常(しょぎょうむじょう)」

とあります。

同じことを、『歎異抄』には、

「火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もって、そらごと・たわごと・真実(まこと)あることなし」

と書かれています。

この言葉の重みを、義経の人生が教えてくれているようです。

──兄弟の念願だった平家打倒をやり遂げたのに、義経はまさに日本中の「アイドル」だったのに、こんなにも変わってしまうとは……。無常を感じました。

義経が、「腰越状」を書いたのは、鎌倉市腰越の満福寺(まんぷくじ)だといわれています。
江ノ電の腰越駅から、歩いて5分もかからない場所です。

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腰越駅から海のほうへ歩いていくと、「義経腰越状旧跡」を表す石柱が建っています。

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義経が「腰越状」を書いたといわれる「満福寺」が線路の奥に見えてきました。

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寺の中には、腰越状が展示されています。書状に署名された「義経」の2文字が、ハッキリと読み取れました。

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──木村さん、ありがとうございました。あんなに仲のよかった兄弟なのに、なぜ、このような悲劇が起きたのでしょうか。次回の「歎異抄の旅」をお楽しみに。

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