日本人なら知っておきたい 意訳で楽しむ古典シリーズ #140

  1. 人生

歎異抄の旅㊱[京都編]俊寛の鹿ケ谷へ『平家物語』と『歎異抄』(前編)

古典の名著『歎異抄』の理解を深める旅へ

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、鎌倉幕府での権力争いが目まぐるしくなってきました。
思えば、天下泰平を目指して、平家一門を破った源氏と坂東武者たち。望みどおりに鎌倉幕府の時代が来ましたが、平和どころか、家族や仲間同士の争いは激しくなるばかり……。
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり」は、平家、源氏のどちらの世にも通じているようです。
今回の『歎異抄』の理解を深める旅は、「鎌倉殿の13人」では描かれなかった「鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀」俊寛(しゅんかん)にスポットライトを当てます。
木村耕一さん、よろしくお願いします。
(古典 編集チーム)
(前回までの記事はこちら)


歎異抄の旅㊱[京都編]俊寛の鹿ケ谷へ『平家物語』と『歎異抄』(前編)の画像1
「意訳で楽しむ古典シリーズ」の著者・木村耕一が、『歎異抄』の理解を深める旅をします

(『月刊なぜ生きる』に好評連載中!)

山荘で秘密の会合

俊寛というと、すぐに思い浮かぶのが、「鹿ケ谷の陰謀」ではないでしょうか。
大きな騒動を起こし、南海の孤島へ流刑になった人物として、歌舞伎でも演じられてきました。

──はい、歌舞伎や能の「足摺(あしずり)」は、新聞広告でも見かけますし、学校の教科書にも載っていたように思います。悲惨な話だなという印象ですが、そもそも、鹿ケ谷とはどんな場所なのか、そこで何があったのでしょうか?

では、少し歴史を振り返ってみましょう。
平安時代の末期に、政治の実権を握っていたのが平清盛(たいらのきよもり)でした。
出世を願う人たちは、少しでも清盛に近づき、気に入られようとしていました。清盛が右へ行けば、皆、右へ行きます。左を向けば、皆、左を向きます。まさに、風の吹く方向に、すべての草木がなびくような光景だったのです。

──それは、すごい状況ですね。

しかも、清盛の弟だ、子供だ、孫だ、というだけで、周囲から持ち上げられ、恐れられていました。どんな名門の貴族であっても、平家一門に、面と向かって何かを言える者は、一人もなかったのです。
まさに平家を中心に、世の中が動いていました。

──平家は、得意の絶頂だったと思います。

当然ながら、貴族たちに不満がたまっていきます。
その中でも、希望する役職に就けなかった藤原成親(ふじわらのなりちか)の怒りが爆発します。自分と同じような不平、不満を持つ輩(やから)を集めて、平家を打倒する計画を練り始めたのです。

その秘密の会合場所に選ばれたのが、鹿ケ谷にあった俊寛の山荘でした。

『平家物語』には、
「東山(ひがしやま)の鹿ケ谷には、城のような堅固な山荘があった」
と記されています。

現在、建物は残っていませんが、俊寛の山荘跡を示す石碑が建っているようです。現地へ向かって、確かめてみましょう。

──よろしくお願いします。

銀閣から哲学の道へ

京都駅からJR奈良線で1つめの駅が東福寺(とうふくじ)です。
ここで京阪電車に乗り換えて、北へ進みます。
終点の出町柳駅(でまちやなぎえき)に到着すると、すぐそばを鴨川が流れていました。
駅前から市バスに乗って、10分ほどで慈照寺銀閣(じしょうじぎんかく)の近くに着きました。目の前に、東山がそびえています。
山のふもとを流れる小川に沿って、南へ約1.6キロメートル続く散歩道が、有名な「哲学の道」です。

歎異抄の旅㊱[京都編]俊寛の鹿ケ谷へ『平家物語』と『歎異抄』(前編)の画像2

鹿ケ谷へ行くには、この哲学の道をゆっくり歩くのが、風情があって、とても心が和みます。春は桜、秋は紅葉が美しい場所です。

歎異抄の旅㊱[京都編]俊寛の鹿ケ谷へ『平家物語』と『歎異抄』(前編)の画像3
哲学の道の途中で、「霊鑑寺(れいかんじ)」「安楽寺(あんらくじ)」を指す標識が出てきたら、東山の方向へ左折します。

歎異抄の旅㊱[京都編]俊寛の鹿ケ谷へ『平家物語』と『歎異抄』(前編)の画像4

ここから、つらい坂道が続きますので覚悟が必要です。

途中まで上ると、道路脇に、
「此奧 俊寛山荘地」
と刻まれた石柱が建っています。ここまでのルートの中で、初めて「俊寛」の名前を目にしました。

歎異抄の旅㊱[京都編]俊寛の鹿ケ谷へ『平家物語』と『歎異抄』(前編)の画像5

「もう、近いのかな」と思って、さらに坂を上っても、それらしきものは見つかりません。とても急な傾斜です。足を上げると体が後ろに反り返る感じがするくらいです。

歎異抄の旅㊱[京都編]俊寛の鹿ケ谷へ『平家物語』と『歎異抄』(前編)の画像6

ひたすら坂を上っていくと、高くそびえる杉林に着きました。
もう、車が通れるような道は途絶えています。

──わあ、山登りですね。この道であっているのでしょうか。

はい、「この辺りに違いない」と、周囲を見渡すと、「俊寛僧都旧跡道」と刻まれた石柱がありました。
しかし、俊寛の旧跡へ行く道が、どこにあるのか分からないのです。

──え、道がない!?

迷っていると、バイクに乗った地元の人が通りかかったので聞いてみました。

「俊寛僧都の山荘跡へは、どの道を行けばいいのでしょうか」

「ああ、それなら、あそこの道を上ってください」

そう言われても、指された方向には山があるだけで、道らしき道は、どこにもないのです。

「あの……?」

「ほら、あそこ! しっかりした道があるでしょ。俊寛の石碑が建っている所まで30分くらいかかると思いますよ。では気をつけて」

確かに、ありました。
一人しか通れないような、狭い登山道が……。

山の上から下りてくる人が見えたので、待っていました。
すれ違ったご婦人から、

「ありがとうございます。この道、けっこう大変ですよ。滑りますから、気をつけてくださいね」

と声をかけられました。

歎異抄の旅㊱[京都編]俊寛の鹿ケ谷へ『平家物語』と『歎異抄』(前編)の画像7

──俊寛の山荘は、思ったよりも山奥にあったのですね。到着まで、まだまだかかりそうですので、次回に続きます。