1万年堂出版が開催した
読者感想文コンクールの
入賞作品の一部をご紹介します。

銅賞

『親のこころ』を読んで

鈴木ゆかりさん(19歳・東京都) 一般の部

「君は今まで、親の体を洗ったことがあるかね」……私はありません。この本は、普段当たり前過ぎて忘れがちな、親への感謝を思い出させてくれました。私が読んだ、木村耕一さんの『親のこころ』という本には様々な形の親の愛と、それを受ける子の姿が描かれています。

古くからの物語や伝説の他に、現代の人の投稿による話もありますが、それらのどれも、リアルで胸にぐっと刺さります。それは多分私にも父と母がいるからで、人の子なら誰もが自分の父母と物語を重ね合わせて共感し、涙するのではないでしょうか。私は全然親孝行できていません。それなのに両親はいつも私のことを考えてくれているのです。私はそれを知っているはずなのに、いつも忘れてしまうのです。でもこういった本を読むとき、改めて親のありがたさに気づかされ、親孝行しなければ、と思うのです。

「誕生日は、最も粗末な食事でいい」。あの水戸黄門として有名な徳川光圀の言葉だそうです。理由は、「この日こそ、母を最も苦しめた日」だからだそうです。日本をはじめとする多くの国では子供の誕生日を祝い、プレゼントを贈る習慣があります。自分の誕生日を思い出してみると、一番嬉しそうに笑っていたのは母でした。ケーキを用意し、電気を消して歌を歌ってくれました。私はそれを普通に受け止めていましたが、ひとつひとつ思い出すとやはり感謝がこみ上げてきます。

徳川光圀の言うように、子供が生まれた日とは、そのお母さんが苦しい思いをして一番がんばった日なのです。多分、一生で一番の痛みや苦しみを母に与えるのは、子供でしょう。それでも母は、生まれたわが子を胸に抱き、ほほえみます。毎年、わが子の誕生を祝います。私は徳川光圀の話を読んで、自分も誕生日には母に感謝をしようと決めました。毎年プレゼントをくれますが、私にとって一番のプレゼントは母が自分を産んでくれ、両親が末永く健康でいてくれることです。

「世の中に思いやれども子を恋うる思いにまさる思いなきかな」……有名な、紀貫之の『土佐日記』の中のうたのひとつです。紀貫之は家族で転勤した先で幼い娘を亡くしてしまいました。大事な娘のことが忘れられず、その地を離れて家に帰るときも、家に着いて庭を見たときも、娘を思い出して涙したそうです。娘が死んだことを忘れてしまって、「おや、あの子はどこにいるのかな」と人に言ってしまったというエピソードなどは、読んでいるこちらも辛くなってしまいます。

紀貫之は悲しい気持ちをなぐさめようと日記を書き続けたそうですが、その日記が、時代を経た今でも多くの人に読まれ愛されているのは、子を思う親のこころがどんな時代でも変わらないからなのでしょう。

「姥捨山」は日本でもっともポピュラーな昔話のひとつです。小さい頃は単純に、「親を捨てるなんてひどい子供だなあ」と思って読んでいたものですが、今読んでみると、とても味わい深い話です。息子は初めは自分の命もかえりみずに年老いた母を匿っていたことから、根は親思いの人であるとわかります。いよいよどうしようもなくなって母を山へ捨てに行きましたが、母が自分が捨てられることを知ってついてきてくれたことや、そんな状況でも息子の身を案じてくれる気持ちに触れ、とうとう母を家に連れて帰ります。

この話は最終的に年寄りの知恵や経験が認められて、ハッピーエンドになっています。しかし親捨てはかつての日本で行われていたことであり、実際は捨てられれば親は死んでしまうという、悲惨なものだったのでしょう。生きていくためとはいえ、実の親を口減らしとして山に捨てに行く子供はどんな気持ちだったのでしょう。自分が親を殺すようなものです。また、親はそのとき何を思ったのでしょう。そう思いをはせる度に今の平和で豊かな生活に感謝し、それをつくってくれた親や先祖を大切にする気持ちがよみがえります。

これらのエピソードはこの本の内容のほんの一部です。読む人がそれぞれの感想を持ち、気に入った話をみつけられます。どれも心に残るすばらしい話です。『親のこころ』というこの1冊を読み終え、両親の愛に包まれて生きている自分を発見することができました。今、多くの人が、自分が必要とされていることに気づいていないように感じます。自分を必要としてくれている人は、親だったり、家族だったり、恋人や友達だったりします。それに気づける人は幸せだと思います。この本がそういう気づきの手助けになることを願って、たくさんの人に薦めたい。私のお気に入りの1冊です。