1万年堂出版が開催した
読者感想文コンクールの
入賞作品の一部をご紹介します。

金賞

『なぜ生きる』を読んで

小嶋勇介さん(79歳・福岡県)

私は昭和5年生まれの79歳、4歳の時、小児まひにかかり、右脚が不自由になった。昭和12年小学校入学。ちょうど日中戦争が始まった年で、その頃から 日本は軍国主義が吹き荒れ、「軍人になれない男の子はゴクつぶし。非国民だ」とののしられた。私は学校でも、皆から、からかわれ、先生からも厄介者扱いさ れた。障害児の私は「なぜぼくだけが……」と、幼いながら人生に絶望しがちな、暗い少年に育っていった。

大戦後は、幸い日本は福祉国家となり、私も人並みに職業に就いて、何とか定年を迎えた。しかし、少年時代から心に持ち続けていた「人の幸、不幸は何で決まるのか?」という疑問は解けないままでいた。

いろいろな人生論の書物をあさり読む。しかし、ますます暗い迷路をさまようばかりである。

そんな時、この『なぜ生きる』に出会った。

文章は読みやすく、漢字のフリガナもありがたい。しかし、「人生に目的はあるのか、ないのか」「生きる意味は何なのか」という大命題だけに、著者は、そう易々と答えを出してはくれない。

まず、古今東西の有名人たちの生き方が並ぶ。オリンピックで金メダルに輝いた水泳選手も、進化論の大科学者も、喜びの頂上に立ったあとは、「生きがい」による満足感が薄れていく。仕事も恋愛や健康、財産、名誉も、不幸や涙の原因になるだけだ。

しょせん、世俗のいわゆる「目標」に到達したあとは、単なる「思い出」や「むなしさ」だけが残る、と説くのである。いわゆる「燃え尽き症候群」である。

著者は、こうして私たちを散々悩ませたあと、「人生の目標」と「人生の目的」は全く違うものだとして、「人生の目的が成就した永遠の幸福とは、どんな世界か」を、親鸞聖人の教えによって、私たちを導いてくれる──第二部である。

冒頭、聖人の答えが記される。

「難思の弘誓は、難度海を度する大船、無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」(教行信証)

この難しいお言葉を、著者は「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的だ」と、分かりやすく現代語に訳してくれる。

そして、では、この「苦海をわたす大船に乗る」とはどんなことか?

一言で言えば、「苦悩の根元である無明の闇が破られ、”よくぞ人間に生まれたものぞ”と生命の大歓喜を得ること」であると明快に語り、「聖人の著書は少なくないが、これ以外、訴えられていることはない、と言っても過言ではなかろう」と述べる。

私は、この著者の自信に満ちた言葉で聖人の世界へと導かれるのである。

続いて「無明の闇とは何か」「なぜ『人命は地球よりも重い』のか」「人生の目的は『ある』のか『ない』のか」、聖人の教えが続く。

その美文、名文にひかれて多くの人々が一度はひもとくが、その真意はなかなか理解出来ない『歎異鈔』の読み方も教えてくれる。

最後はショッキングな結びである。「独り生まれ 独り死ぬ 独り来て 独り去る 独りゆかれた親鸞聖人」私たち世俗の人間と同じ”生きざま”をさらしな がら、激しく厳しく生き抜かれた聖人。これを著者は「まことに独りゆかれた親鸞聖人に、ふさわしい臨終であったともいえよう 合掌」、で終わる。

私は、この結びで、雲の上と思っていた親鸞聖人が、私たちと同じ生臭い人間として悩み、自分と闘い、そして私たちの解脱の踏み台になって下さったことを知った。

私は10年ほど前から、あるボランティア活動を続けている。地区の障害者仲間数人と語らって、小中学校の福祉体験学習の指導をするのである。車いすの押 し方や、目の不自由な人の誘導の仕方を教えたあと、自分達の苦しかった人生の歩みを語りながら、「命の大切さ」を訴える。そして「私たちの命は、自分だけ のものではない。両親の命、その両親の両親の(それぞれの祖父母)の命、というふうに、多くの祖先の命を引き継いで生きているのだよ。この命のバトンを落 とさず、引き継いでいこう!」と結ぶ。

私はそう語りながらも、今一つ自分の話に迫力がないと反省していたのである。

今、私はこの『なぜ生きる』を読ませて頂いて、「命の大切さ。生きることの素晴らしさ」を、自信を持って子どもたちに語ることが出来る。

親鸞学徒の2人の著者と監修の高森先生に心からお礼を申し上げたい。